計算プリント一枚の宿題に取り組めず、泣いて嫌がる子に、学習ゲーム(算数ゲーム)をすすめてみると、笑ったりくやしがったりしながら、プリントで課されていたものよりもはるかに大量の計算問題に集中して取り組む。
つまり、この子を泣くほど苦しめていたのは、「算数の勉強」ではなくプリントという「形式」だったのだ。
彼は多分学校では「算数嫌い」あるいは「勉強嫌い」と認識されてしまうだろう。「嫌い」じゃなくて「退屈すぎて耐えられない」なのに。大人が勝手に「認定」してしまっている「勉強嫌いな子」が一体どれほどいることだろう。
きっかけが無ければ親ですら「この子は「勉強」が嫌いなんだ」と思い込んでしまうかもしれない。
新しい知識を覚えること、新しい技術を身につけること、これは子供だろうが大人だろうが誰にとっても大きな喜びとなるものです。しかし悲しいことにその過程が往々にしてえらくつまらない。それはその作業が「刺激」に乏しいから。
人間は一旦ある強さの刺激になれてしまうと、おなじ刺激には「退屈」するように出来ています。そして、現在子供である世代は、現在親である世代よりも圧倒的に強く、かつ大量の「刺激」にさらされて育っています。
つまり、現在の子供にとっての勉強(ここではプリント等)は、親世代が子供の時に感じていたよりも「はるかに退屈」なのです。
僕は退屈な勉強が大嫌いな少年だったので、それよりも「もっともっと退屈」なことを強要されるなんて、想像しただけでも気が滅入る。この辺の想像力が働かず、自らの体験からのみ類推して「イヤでも、つまらなくてもやるのが勉強なんだ」とか平気でいう大人が多すぎる。