こんにちは、まなゲーらんど管理者の池田です。
JTB社員のバス手配ミス隠蔽が話題ですが、案外他人事ではありませんよね。
生徒を装った自殺をほのめかす手紙で、遠足を延期させようという「手段」が劇場的で大掛かりなため話題として盛り上がっているのだと思いますが、目的や行為の本質に目を向ければ、ミスをごまかそうとした、というもので極めて身近なものです。ウソをついて失敗をごまかそうとした(実際にごまかした)経験の無い人などおよそいないでしょうから。かくいう私も覚えがあり過ぎてとてもいちいち列挙していられないほどです。
忘れ物や待ち合わせへの僅かな遅刻から、重大な仕事上のミスまで、実にさまざまな失敗を私たちは日常的に「誤魔化して」すごしています。
書店でビジネスの心理に関するものを探してもいいですし、ネットで検索してもいいのですが、「失敗は素直にあやまるよりも誤魔化した方が得!」と言い切ってしまっているものも少なくありません。
わざわざ書き手にいわれなくても、失敗をしたときに「誤魔化したい」という気持ちが沸くのが、ほぼ習慣化してしまっているというひとが多いのではないでしょうか(実際に誤魔化すかどうかは別としてそういう気持ちが沸く、ということです)。
そういう気持ちは、いつどこからやってきて、いかにして習慣化するのでしょうか。
はじめはやはり親との関係における不安でしょう。(評価されたい(怒られたくない)など)。
そして、周囲の大人(先生など)や仲間との関係へと広がりつつ軸を遷していきます。(認められたい(侮られたくない・怒られたくない))
さて、学齢に達した子どもにとって、もっとも頻繁にこの不安にさらされる機会を提供してくれるもののひとつが、やはり「勉強」なのではないでしょうか。(褒められたくてウソをつく、ごまかす、というのも多々あります。これも同じと考えます)
勉強の嫌い・苦手な子ども達は「勉強」と聞いただけで身構えます。
(「勉強なんて意味ない」というのも防衛反応です。)
なぜこうなるのかといえば、彼らが日常的にこの「勉強」とセットで「受けたくない評価」を受けているからです。
(「勉強なんて意味ない」だから「出来ない僕は駄目な子ではない」)
同様に、宿題が出来てない子は、「宿題」と言うだけで、何もまだ聞いていないのに宿題が出来なかった「理由」を聞かせてくれます。この反応のすばやさ、理由の多様さともっともらしさ、理由の上への「いなおり」度合いは、年齢があがるごとに強まっていきます。当然です。長年にわたって「鍛えられて」いるのですから。
こうやって鍛えられ、「幸いにして」ミス少なく(露呈するミスが少なく)成長した子どもが、社会に出てある日「とんでもない」(と本人が思う)ミスをしてしまったとき、どれほど「おかしな」誤魔化し方を思いついたとしても、さらには、実行にうつしてしまったとしても、それは一向に不思議なことではありません。
私たち大人が、子ども達に勉強を「課す」ことによって、彼らの何を育て、何を鍛えているのか、このところを、よくよく考えなければなりません。
勉強は単なるスキルです。たかがスキルを鍛えるために(重要なスキルであることは認めるとしても)、私たちは何を代償として支払っているのか、彼ら彼女らに支払わせているのか、その視点が常に必要だと思います。
僕が勉強ゲームを扱うのは、勉強(ことに習得・ドリルに相当する部分)なんてその程度(遊び感覚で身に着ける程度の)ものだと考えているからでもあります。深刻にやるようなものではありません。