トッキュウジャーvs歴代戦隊ヒーロー 大人の為のもうひとつの「ヒーロー大戦」

テレビを観る子ども達

こんにちは、マナげーらんど 池田です。
多くの子ども達が幼児期に夢中になる戦隊ものシリーズについて、最新作と90年代、70年代の作品を刺激量で比較してみました。
その結果、同じく戦隊ものシリーズをみていても、現在の子ども達とかつて子どもであったころの私たちでは、まったく異なる経験をしているであろうことが示唆されました。

僕は以前から、勉強・宿題に「とりくめない・繰り返せない」子ども達について、彼らが既に大人である我々には「想像もつかないような退屈」の中にある可能性を指摘してきました。
退屈さというのは相対的なもので、どのような刺激を「普通」と感じているかの影響を受けます。人間に限らずすべての生き物は、あらゆる刺激にすぐ慣れていきます。そして強い刺激になれれば、その強さをあまり感じなくなり、同時により刺激の少ないものにたいして、より大きな「つまらなさ」を感じることになります。ですから、強い刺激に慣れればなれるほど、子ども達は、例えば計算・書き取りプリントなどに取り組む際に、より早く飽き、より強い退屈とそれにともなう苦痛を感じる可能性が高くなるはずなのです。

現在の子ども達が、かつての子ども達である我々と比べて、より強い刺激になれているであろうことは、なんとなくレベルでも納得してもらえると思いますが、それをあえて量的に比較してみようというのが今回の企画です。

今回比較対象としたのは、シリーズの最新作であり2014年5月現在放映中の「烈車戦隊トッキュウジャー」と、92年放送の「恐竜戦隊ジュウレンジャー」、75年放送でシリーズ第1作である「秘密戦隊ゴレンジャー」です。出来るだけ客観的に比較できる基準でということで、シナリオ等の内容については吟味せず「眩しさを感じる視覚効果の出現回数」を比較しています。
(「眩しさを感じる」の部分に観察者である私の主観が入ってしまいますが、背景で小さく光る計器類などまで数えていくとキリがなかったりもしたのでそのようにしています。)

各作品の第1話について、プロローグからエンディングまでの約25分間の間にどれだけの回数「眩しさを感じる視覚効果」が使われているかをカウントして比較した結果をまとめたのが下のグラフ(画像)です。

戦隊シリーズ刺激比較

結果、ゴレンジャー(’75)で37回、ジュウレンジャー(’92)で89回、トッキュウジャー(’14)では実に324回も「眩しさを感じる視覚効果」がみられました。ゴレンジャーとトッキュウジャーの比較では8.76倍にもなります。(トッキュウジャー第1話を視聴した場合、22分10秒の間(使用したDVDにエンディングが含まれなかったため他よりやや短い)、平均して約4秒に1回のペースで眩しさを感じるレベルの強い光を見続けていることになります。)

さらに言えば、個々の視覚効果についても、年代が変わるにつれて格段に強くなっていく傾向にあると感じました。

ゴレンジャーでは火薬を用いた火花と爆発を直接撮影したものがほとんどであるのに対して、ジュウレンジャーでは撮影したフィルムに処理を加えるタイプと思われる効果がかなり追加されて賑やかさが大幅にアップ、トッキュウジャーに至ってCG使いまくりの画面中光りまくりという状態です。画面全体の明るさ、さらに言えば視聴機器であるテレビやモニタの画面そのものの明るさも大きく変化しているわけですから、それらも加味して、いったいどれほどの刺激の差があるのかというのをイメージしていただくとより実像に近づくかもしれません。

さて、この比較を通じてお伝えしたいこと、考えてみていただきたいことですが、「危険だからすぐ観るのをやめさせましょう!」というのとはちょっと違います。
(それも良いでしょうが、なかなか難しいと感じる方が多いでしょう。)

肝心なことは、子ども達が既にその刺激の中に暮らしていて、慣らされているということであり、同じく「戦隊ものを視聴する」と称される行為でも、我々大人が体験したそれと今子ども達が体験しているそれは、まったくの別物である可能性が高いということなのです。何しろ、少なくとも8倍以上になったであろう刺激を、記録メディアを使って「繰り返し」見ている場合が多いのですから。

子ども達に「勉強しなさい!」「宿題やったの!?」と叱るとき、その「できない」の一端、もしかすると大半は我々が「育てた」ものかもしれないという自覚のもとに発言・行動しなけばならないし、その前提のもとに対策を考えねばならないということなのです。

大人社会への小窓(取り次ぎ役)としての勉強

特別なギフテッドである場合を除き、子ども達にとって、大人一般から高評価を受け特別に扱ってもらうための殆ど唯一の方法が「勉強」です。親や先生がどれだけ「良いところを見つけて伸ばす」態度を示そうが、大人社会一般の通念として、そのようであるということを、子供たちは敏感に感じ取ってしまいます。他のあらゆる尺度での評価に、カッコつきで(勉強はできないけど)(勉強ができる上に)などがイチイチ付着しているのが透けてしまうのです。

そして、勉強に向いた、あるいは発達的に先行している子ども達の一部が、評価と高待遇を受け取り、それ以外の多数の子ども達が、自分達は評価されないのだという事を知ることに、というより体感することになる訳ですが、この構造は何かに似ていますね。「取次ぎ役の権威肥大」です。

歴史上、権力者の側近、ことに本来自身は権力を持たないはずの「取り次ぎ役」の権威が異常に肥大化した例は枚挙に暇がありません。彼らを通さなければ何者も権力にアクセス出来ない状況が、本来持ちえ得ないはずのものを与えてしまうのです。

子ども達にとっては勉強が、大人社会への取り次ぎ役であるという訳です。勉強に気に入られるか上手く取り入ったもの達だけが、大人社会の好意を得て優遇されることになります。他の道が完全に存在しないわけではありませんが、極めて高難度かつハイリスク。古代に例えるなら、剣闘場の英雄となって謁見をゆるされるようなレベルの話です。

もちろん、好意と高待遇を獲得した子ども達にとっても問題は容易ではありません。機嫌を損ねることなく関係を維持していかねばならないのですから。

かくして「勉強様」の権威は肥大化し、勉強はモンスター化します。子ども達にはコレをねじ伏せるだけの力をつけるか、上目遣いで付き合っていくか、逃避するか、殆どこの3択しか与えられません。そして逃避を選んだ場合、殆どは完遂されることなく捕縛されるに至ります。

(大人社会の縮図として現れる子ども社会においても、勉強様の権威は、歪んだ形ながら浸透しており、この事が逃避の完遂をより困難にします。)

我が子をすすんで「取り次ぎ役」の機嫌とり名人、あるいはその虜囚に育てたいと思っている人は、普通あまりいないでしょうけれど、深く考えずに「勉強は大事」と連呼すること(そう感じさせる態度をとること)、あるいはそのような情報源に子どもを頻繁に曝すことは、つまりそういうことなのです。

モンスターと戦うものには、何より「敵を知る」ことこそが重要。子どもを応援しているつもりが、いつのまにかモンスターの味方をしてしまっていた、とならないよう注意したいものです。

アナと雪の女王:父ちゃんがムスメと語りたいこと

こんにちは、まなゲーらんど 池田です。
先日、ムスメ(5)と二人で「アナと雪の女王」を観てきました。僕は初めて、彼女は3回目(!)。

リラックスして楽しく観られましたが、やはり、というかいわゆるジェットコースタームービーですので、幼児の頭は、その場面場面を愉しむので一杯いっぱいだろうなーとも思いました。
それではもったいないので、これをネタにまた二人で、あるいは家族みんなで色々語り合ったりしたいと思うわけです。以下、ネタバレを含みますのでまだこれから見る予定の方はご注意を。(といっても大体の筋はなんかバレバレになってますよね。この映画(笑))

さて、この映画、なにかと「真実の愛」ですが、アナと雪の女王におけるこの「真実の愛」ってどういうものだったのでしょう。
エルサの魔法を心に受けて全身が凍りはじめたアナ、これを溶かすものは「真実の愛」だけである、という展開ですが、はじめそれをハンスに求め、ついでクリストフに期待し、でも結局、窮地にあるエルサを救うためにわが身を投げ出したことによって魔法が解ける訳です。しかし、考えてみると、これだけではちょっと浅すぎないか?という感じが残ります。(身内の為に命を投げ出すということを実際に実行できるかどうかはおいて、物語の中心として、ということですが)

アナは「求めるもの」です。受け入れられたい、愛されたい、という気持ちに足が生えて走り回っているような女の子です。「エルサを助けなきゃ」と言って後を追いますが、やってること言ってることは一貫して「~して!」ばっかりです。その彼女がついに・・・というのはそれなりに劇的ではありますが、考えてみるとこのお話には、極めて受容的で献身的な存在が既に登場しています。そう、オラフです。

夏にあこがれる陽気なゆきだるまオラフ。序盤「ゆきだるまつくろう」の歌にもみられるように、この物語においてゆきだるまは、アナとエルサ姉妹の心の通い合いの象徴です。幼い二人が魔法で雪遊びを楽しむ場面でもエルサは「オラフ」をつくっていますが、こちらのオラフは心を持たないただのオブジェクトのようでした。ではなぜ、後にあらわれたこのオラフは、心を持ち、しかもあんなにもアナに対して受容的かつ献身的だったのでしょうか。これはエルサが生み出したもう1体のゆきだるま(?)、エルサの「こばむ気持ち」のアバターである雪の巨人と対置されることで分かりやすくなっていますが、オラフこそは、エルサのアナに対する、寄り添いたい気持ち、受け入れたい気持ち、支え守りたい気持ちの化身であるからです。巨人との違いは、巨人は拒絶を「込めて」作られたのにたいして、オラフにはエルサの心が「宿った」感じなところ。

ハンスに見捨てられ今にも息絶えなんとしているアナを助け、ゆきだるまの身で暖炉に火をともしながら「アナのためなら溶けてもいいよ」と平然と言い放つオラフは、物語の真のヒーロー(名前からしてたぶん男なので)でもあります。エルサの、アナを大切にしたい傷つけたくないという気持ちの「伝わらなさ」もこの物語の最重要要素のひとつですが、オラフとなったエルサの愛は、(ハンスをして野望の暴露に踏み切らせたほどに)衰弱しきっていたアナに、立ち上がり、最後の冒険へと向かえるだけの力を与えています。しかし、あくまでアバターにすぎないオラフには凍らんとするアナの心を完全溶かすまでの力はありません。

そしてオラフによって支えられ導かれたアナが、(まだクリストフになんとかしてもらおうとか思ってますが)襲われるエルサをかばってハンスの前に立ちはだかる。氷像となったアナにすがって泣くエルサ(凍ってしまったアナだからこそ抱きしめるが可能だった)。この時、姉妹の心がついに「通った」のだと思います。

とまぁ、ごちゃごちゃ書きましたが、父ちゃんはムスメとオラフの話がしたいのでした。一緒に歌うのも楽しいけれど。

ハンスのことや父王のことも書きたいけど、また今度にします。

連休中あちこち行って色々やったが娘には虫捕りが一番だった件

ちょうちょ捕り

【ちょうちょ捕り】
実家から徒歩1分の農道わきに、子どもを解き放っておくだけで、お金も時間もかからず、子どもも大満足、虫の扱いなどを教えてやると嫁さんにまで感心される素敵イベント。連休中色々やったけどコレが一番楽しかったみたい。虫捕り網を抱えて走っていく姿が、小銃を抱えて突撃する兵隊のようで、実像と連想のギャップにより平和さを感じて面白い。

養老孟司さんが「虫捕る子どもだけが生き残る」を著しておられるが、実際虫捕りは心身ともにフル活動で鍛えられるなぁ、と見ていて思った。おまけに「生命」を直接扱わせられる機会でもある。手に着くリンプンや、すぐに欠けてしまうアゲハの羽、いかにも脆いモンシロチョウのからだ等からもムスメの「手」が色々学んでくれただろう。子どもと遊んでいてもすぐ『いま彼女のなかで何が起こっているだろう』などと想像してしまうのは僕の悪い癖だが、子育ての楽しみと思う。

「もっと大切にあつかってやれ」と偉そうに声をかけるオヤジの子ども時代は、毎日が虐殺の日々だったといっても良い。一体どの口がいうのかと失笑してしまうが、過失的に、あるいは意図的に生き物を損なう経験から取り返しのつかない「一線」を感じ取ることも必要だ。

この夏はぜひ釣りをさせて、小魚をさばく所を体験させたい。

まなゲーを利用可能な学校が大幅に増えました(多分)

こんにちは、まなゲーらんど管理者の池田です。

この度、全国2万校以上で採用されているwebフィルタリングソフト InterSafe Webfilter(日本PTA全国協議会推奨)を開発提供しているALSI社においてサイト登録カテゴリの見直しが行われ、「まなゲーらんど」は「ゲーム」カテゴリから、「学術・教育」カテゴリに移動されました。

これにともない、まなゲーらんどを校内で閲覧可能な学校がかなり増えたのではないかと思います。
(自分では試せないので「多分」です。キーワードでフィルタリングする設定だとやっぱりだめだったりすると思いますが・・・)

これまで利用できなかった学校の先生方、一度お試しいただけると幸いです。

今後、他社でも同様の措置をお願いしていくつもりですので、やっぱりだめだったという方もお見捨てなく;;
やっぱり駄目だった方は、フィルタリングソフトの製品名や提供している会社名など教えていただければ交渉します。

上記ソフトを導入していて、使えるようになった、やっぱりダメだったという情報も、是非ほしいです。連休明けでそれどころじゃないと思いますが、ちょこっと試してみて結果を教えてもらえると大変ありがたいです!

情報・現状をお聞かせいただける方は、こちらから。

wired日本版のワザとくさい誤訳(?)がちょこちょこ気になる件

http://wired.jp/2013/07/25/to-war-is-human-perhaps-not/

wired日本版のワザとくさい誤訳(?)がちょこちょこ気になる。
お友達が紹介してらしたのでさっき読んだこの記事もそう。はじめ読み手に「暴力は人間の本質でなかった」という内容だと思わせるような書き方をしておいて、読み進むとぜんぜん違う記事なのです。

元記事では、
Sure, humans are violent, the researchers say ? but…
とはっきり人間がviolentだと前置きした上で、でも、集団間での殺人(戦争的なもの)は、(かつての狩猟採集社会で)人類が犯した殺人全体の中での、ごく少数を占めるに過ぎなかった、そこが誤解されて戦争が人間の本質に根ざすものであるかのように思われている、ということを語っているのに、その前提部分が日本語訳からは意図的っぽく省かれていたり、拡大解釈を招くような表現や省略があったりしています。

例えば冒頭「人間の中にある好戦的な気質が、実は比較的あたらしいものだとする・・・」、これ「好戦的」を「戦争(個人間でなく集団間の殺し合い)を好む傾向」と解釈しないと本来の意味からズレてしまうけれど、普通もっと広い意味でとらえてますよね。こういうのがちょこちょこある。

もちろん僕も、暴力が人間の本質ではなかった!と言ってもらえる方が嬉しいし、そう思いたいので、そういう記事なのかと期待した訳です。でも違った。違うのにそう感じさせるように書かれてた(と思う)。

いい方向にであれ、悪い方向にであれ、こういうのはホントやめてほしい。

論文が指摘していることもとても重要なことなのに、記事の冒頭で変に煽られているせいでなんだか読後感が微妙に・・・。

JTB社員のバス手配ミス隠蔽について考えていたら結局勉強の話に・・・

こんにちは、まなゲーらんど管理者の池田です。

JTB社員のバス手配ミス隠蔽が話題ですが、案外他人事ではありませんよね。

生徒を装った自殺をほのめかす手紙で、遠足を延期させようという「手段」が劇場的で大掛かりなため話題として盛り上がっているのだと思いますが、目的や行為の本質に目を向ければ、ミスをごまかそうとした、というもので極めて身近なものです。ウソをついて失敗をごまかそうとした(実際にごまかした)経験の無い人などおよそいないでしょうから。かくいう私も覚えがあり過ぎてとてもいちいち列挙していられないほどです。

忘れ物や待ち合わせへの僅かな遅刻から、重大な仕事上のミスまで、実にさまざまな失敗を私たちは日常的に「誤魔化して」すごしています。

書店でビジネスの心理に関するものを探してもいいですし、ネットで検索してもいいのですが、「失敗は素直にあやまるよりも誤魔化した方が得!」と言い切ってしまっているものも少なくありません。

わざわざ書き手にいわれなくても、失敗をしたときに「誤魔化したい」という気持ちが沸くのが、ほぼ習慣化してしまっているというひとが多いのではないでしょうか(実際に誤魔化すかどうかは別としてそういう気持ちが沸く、ということです)。

そういう気持ちは、いつどこからやってきて、いかにして習慣化するのでしょうか。
はじめはやはり親との関係における不安でしょう。(評価されたい(怒られたくない)など)。
そして、周囲の大人(先生など)や仲間との関係へと広がりつつ軸を遷していきます。(認められたい(侮られたくない・怒られたくない))

さて、学齢に達した子どもにとって、もっとも頻繁にこの不安にさらされる機会を提供してくれるもののひとつが、やはり「勉強」なのではないでしょうか。(褒められたくてウソをつく、ごまかす、というのも多々あります。これも同じと考えます)

勉強の嫌い・苦手な子ども達は「勉強」と聞いただけで身構えます。
(「勉強なんて意味ない」というのも防衛反応です。)
なぜこうなるのかといえば、彼らが日常的にこの「勉強」とセットで「受けたくない評価」を受けているからです。
(「勉強なんて意味ない」だから「出来ない僕は駄目な子ではない」)
同様に、宿題が出来てない子は、「宿題」と言うだけで、何もまだ聞いていないのに宿題が出来なかった「理由」を聞かせてくれます。この反応のすばやさ、理由の多様さともっともらしさ、理由の上への「いなおり」度合いは、年齢があがるごとに強まっていきます。当然です。長年にわたって「鍛えられて」いるのですから。

こうやって鍛えられ、「幸いにして」ミス少なく(露呈するミスが少なく)成長した子どもが、社会に出てある日「とんでもない」(と本人が思う)ミスをしてしまったとき、どれほど「おかしな」誤魔化し方を思いついたとしても、さらには、実行にうつしてしまったとしても、それは一向に不思議なことではありません。

私たち大人が、子ども達に勉強を「課す」ことによって、彼らの何を育て、何を鍛えているのか、このところを、よくよく考えなければなりません。

勉強は単なるスキルです。たかがスキルを鍛えるために(重要なスキルであることは認めるとしても)、私たちは何を代償として支払っているのか、彼ら彼女らに支払わせているのか、その視点が常に必要だと思います。

僕が勉強ゲームを扱うのは、勉強(ことに習得・ドリルに相当する部分)なんてその程度(遊び感覚で身に着ける程度の)ものだと考えているからでもあります。深刻にやるようなものではありません。

100ますダンジョンがgoogle検索「100マス計算 ゲーム」で1位になっています

こんにちは、まなゲーらんど管理者の池田です。

100ますダンジョン

ずいぶん前につくった100ます計算ゲーム「100ますダンジョン」が、
google検索「100マス計算 ゲーム」で今頃になって1位になっているようです。

http://www.19online.net/10x10table/

まぁ、1位になってもそれほどアクセスが増えたりしない訳なんですが、
1つ下にいる101匹わんちゃんの100マス計算ゲームに勝ったのが、なんだか嬉しい(笑)

せっかくなので近いうちにアップグレードしよう。
と思ったら実はこのゲーム、随分前に作ったとかいいながら、いまだにver0.5のままだったりして・・・
せっかくとかそういうのじゃなくてちゃんと完成させないといけませんね;;

フィルタリング対応のお願い(先生方へのメッセージ)

こんにちは、まなゲーらんど管理者の池田俊明です。

まなゲーらんどは、全ての子ども達、特に勉強嫌いとその予備軍の皆さんに、
退屈で苦痛な反復学習を楽しくやってもらおう、勉強の「楽しい部分」まで嫌いにならないでもらいたい、そんな気持ちでやっています。全てのコンテンツが無料で利用可能な状態を維持しているのもそのためです。

しかし、まことに残念ながら、かなり多くの学校で、パソコン教室でまなゲーらんどを子ども達に利用してもらうことができない状態にあります。それは「ゲーム」というキーワードがフィルタリングソフトに引っかかってしまうためです。

僕が学習ゲームたちを届けたい「勉強嫌い」の子ども達のうち、少なくない割合の子が、家庭において両親にこれらのコンテンツを勧めてもらえる環境にありません。もちろん自分で検索して発見し活用できる環境にも。(できる環境にあってもしない、というのも含みますが;;)

そういった子ども達に、まなゲーらんどを活用して勉強とうまく付き合っていってもらうためには、学校で先生に紹介していただくことが最も良いのですが、非常に残念な状態です。

そこで、ここをご覧いただいた先生方にお願いがあります。フィリタリングの解除を申請していただきたいのです。

申請先は、構内のICT担当の先生だったり、外部から派遣されている担当者だったり、教育委員会の担当部署だったりしますが、
概ねその3者のいずれかに問い合わせていただければ可能です。(すでに実施していただいた先生から伺ったお話に基づいています。)

申請に必要な情報は多くありません。サイトの名称(まなゲーらんど)と、サイトのURL(www.19online.net)、フィルタリングを解除したい理由(例:計算練習に有効なサイトなので活用したい)などをざっくり伝えてもらえば、案外容易に解除してもらえるようです。もちろん、お忙しい毎日のなかでその時間をとっていただくのは大変だと思いますが、サイト上での先生登録などの労をとっていただけた先生であれば、もうひとがんばりというところではないでしょうか。

このように申請したらうまくいった、あるいは拒否されたなど、お試しになった内容をお聞かせいただけると大変うれしいです。

何卒、よろしくお願いいたします。

子どもたちには勉強を甘く見させるべき(お母さんお父さんへのメッセージ)

まなゲーらんど管理者の池田です。こんにちは。

大人になったり、親になったりすると、若者や子どもたちに何かと
「世の中を甘く見てはいけない」というようなことを言ってしまいます。

しかし、少なくとも「勉強」については、どうも甘く見ておいてもらうほうが良さそうです。

大変、難しい、苦しい、などというイメージをもっているよりも、
楽勝、ちょろい、楽しい、などのイメージを持っているほうが、
取り組めるか否かという点でも、実際の学習効果という点でも成果があがるからです。

もちろん、甘く見ているせいで「後回し」になる傾向を生じてしまう危険もありますが、
それはまた別途対策するべきでしょう。

子どもたちの行く末を心配するあまり、つい我々親はネガティブな言葉で子どもたちを「脅し」てしまいがちですが、
それがいい結果をもたらすことは、まぁありません。
(短期的に成果をあげさえすれば後は知らないというなら話は別ですが)

実際「やっておかないと後で困る」などというのは、勉強が苦手な子、嫌いな子ほど
強く持っているイメージのようです。このイメージがさらに彼ら彼女らを勉強から遠ざけ、
その傾向を強めさせているであろうことは容易に推測できることです。

現実に「難しい」単元などであっても、例えば「難しい」よりも「手ごわい」の方が行動やチャレンジを促すイメージでしょう。
取り組んでいるとき、実は「難しい」と感じていても、攻略したときは「楽勝♪」と言っておく。
こういう態度が、勉強を組み伏せ、支配することのできる心を育ててくれるのです。

たかが「学力」と引き換えに、大切な子どもたちを勉強様の「奴隷」にしてしまうことのないよう気をつけたいものです。