Scratchでゲーム制作入門 – ブロック4つでモグラ叩き –

こんにちは、まなゲー池田です。
まなゲーらんどの運営と並行して、僕が直接指導できる範囲に限って、小さなプログラミング教室「まなゲーらぼ」をやっています。

教室の子向けに、いろいろ考えたり作ったりするんですが、せっかくなので一部を記録・公開していこうと思います。

「俺(私)ゲーム作れる!」の為の「超簡単4ブロックゲーム」

今回は、とにかく初めてでもすぐにゲームっぽいものができてしまう「ブロック4つでモグラたたき」です。

はい。タイトル通り、必要なブロックはたったの4つ。超簡単ですね。
全く初めての子でも数分で作ってゲームらしきものを動かしてみることができます。

緑の旗ボタンをクリックしてスタートすると、ネコ君がステージの真ん中に配置されます。
(初めてやるときは、最初からネコ君真ん中にいるので、何も起こらない感じになります。)

で、ネコ君をクリックしてやると、その都度、ランダムな座標へと移動して、画面を飛び回ってくれます。

クリックするごとに移動します。

何てことないんですが、これだけでも結構「わーー」ってなって楽しいです。
スタートから動かしてみるまでの短さがScratchの真骨頂ですので、初めてやる子にはオススメです。
問題は、この時点で楽しくなっちゃって、次へなかなか進んでくれないことが、ままあることですかねw

続きの記事「4ブロックモグラ叩きの改造(1)」を読む

配当漢字チェッカー

こんにちは、まなゲー池田です。
小学校の各学年で習う漢字を「配当漢字」と言います。ある文章を子どもに読ませる、あるいは子ども向けに文章を書くとき、学齢に応じた配慮が必要になりますが、その確認を人力でやるのはかなり手間な上に、漏れのリスクが常に残ります。

そこで、任意の文章を与えてやると、その中で指定された範囲の配当漢字がどのように使われているか、あるいは未習の漢字がどのように混ざっているかを調べて回答してくれる「配当漢字チェッカー」を作ってみました。

手元データとリストを照らし合わせてチェックするという作業は、非常にコンピュータ向けの作業ですので、ちょっとしたプログラムをかけるようになれば、このぐらいのものは割とすぐに作れるようになります。もちろん、データを用意し、アルゴリズムを考え、それをコーティングするのには、一定の時間が必要ですが、手作業でやるよりも、専用のプログラムを作る方が結局早い、ということはよくありますし、繰り返し同様の作業を行う可能性があるならば、どんどん作っていくべきだと思います。

上の画像は、配当漢字チェッカーでデフォルト入力されている「チェックしたい文章をここに入力」という文を、チェック範囲を1年生に設定してチェックした結果です。ここに含まれる漢字のうち「入文力」の3文字は1年生で習うこと、「章」の字はまだ習わないことなどがわかります。

使ってみて、ご意見などありましたら、ぜひ聞かせてください。

「配当漢字チェッカー」を使ってみる

お勉強モンスターの紹介 1 – バツマール –

勉強モンスター:バツマール

出張授業をさせてもらう時、子ども達に学習ゲーム内に登場する「勉強モンスター」のデザインに挑戦してもらっています。「自分と勉強、勉強のことを考える気持ちからモンスターが生まれてきたらそれはどんなやつかな」という問いへの答えとして描いてもらうのですが、「モンスター」と言っても、必ずしも「怪物」ではありませんし、悪者とも限りません。

このコーナーでは、彼ら彼女たちが描く「勉強モンスター」を紹介しながら、それを描くとき、どんなことを考えたのかな、とか、普段勉強とどんな風に関わっているのかな、などということ、皆さんと一緒に想像してみたいと思います。

これらはあくまで、子どもたち自身に自分の中の勉強と向かい合ってもらうためのきっかけとして描いてもらっているもので、分析めいたことをしすぎないようにしたいと思いますが、そのキャラクターを見て池田が思ったことも、少しだけ描き加えさせてもらっていきます。

初回に紹介するのはこのキャラクター

勉強モンスター:バツマール

勉強モンスター:バツマール

以下に、このキャラクターの性格や行動の特徴を、デザインした児童生徒自身が書いてくれたものを記載しますが、そちらを見る前に、少しご自身で想像してみることをお勧めします。

【キャラクターの設定】
(デザインした児童生徒自身が記入したもの)

マルとバツをきにしてはつげんをしない。
すごくおとなしい。はなしをきくことしかできない。
まちがえるとなく。

【コメント】(池田)

マルやバツをモチーフに描く子は多いですが、このキャラクターの場合は、それら記号とそれが(おそらく作者自身に)もたらしたものを合わせて描いてくれているのかなと思います。

評価を受けるというのは、基本的に恐ろしい体験です。学校というのは、日々衆目の中で繰り返し評価にさらされる場所でもあります。スキル習得のための通過点として、「現在位置」を知るためのものにすぎないはずの「評価」が、その人の能力に貼り付けられたレッテルのようになってしまう。極端な話、たった一度の授業中の失言で、その後の人生が大きく左右されるようなダメージを被る可能性だって、少なからずあるわけです。

設定を読んでから改めて見直すと、細かいところがすごく気になってきて、イラストだけをパッと見たときとはまったく違う印象になる顕著な例だと思います。

自然を味わう – アキグミ –

こんにちは、まなゲー池田です。
自然の中へ出かける時、食べられるものを探すことにしています。

食べるという学習法

実際に食べる時もあれば、さわったり嗅いだりしてみるだけの時もありますが、ただ眺めて歩くよりもずっと楽しいし、視覚・聴覚・触覚・嗅覚に味覚も加えてやることで、五感を総動員することになり、心に残ることが+25%を大きく超えるように思います。

草花の名前や、姿形など、子どもに教えてもなかなか覚えませんが(そういう僕も変わりませんけれど)、食べたものはよく覚えているし、一旦忘れてもすぐに思い出せるものです。

今回、帰省先の富山で入手したのはこれ。

「アキグミ」です。直径数ミリから1cmほどの丸くて赤い実が、たくさん実っていました。

周りにはキャンパーがたくさんいましたが、みんな持参した食べ物の調理準備にお忙しいようで、木の実を採って食べようというなどという人はとんといないようで、取り放題でした。もちろん、節度も学ばねばなりませんので、少しだけ、確実に食べる分だけを取ることにします。

アキグミを食べると、まずまず強い渋みの後に、優しい甘みがやってくるのですが、この渋みの正体はタンニンだとか、リコピンがたくさん含まれていて美肌効果があるらしいとか、そんな話もしながら、一粒また一粒と食べて行くと、興味の幅もまた拡げてくれるように思います。

この日は他に、クルミやムカゴも取れました。秋の野山には、実に様々な実りがあって、ちょっと目を凝らせば、そこら中に「食べられそうなもの」がゴロゴロしています。もちろん、強い毒性を持つものや、渋みやエグ味が強すぎてとても食べられないようなものもたくさんあります。危険なものについて知ることも大切なこと。食べられるものには、ちょいちょい、それとよく似た危険なものがあったりして、自然の作られ方についても思いを巡らすきっかけを与えてくれます。

そんな雑多なものの中を歩き回って「これはどうだ、あれはどう?」と散策していると、家族の仲よさも一段と増すようで。いいこと尽くしですよ。

※危ないものは本当に危ないので、いろいろ調べてみること、なんでもかんでも食べないこと、初めて食べるものは、ちょっぴりにしておくこと、などは大切です。

「脱やる気」でやれる自分に近づく(2)

こんにちは、まなゲー池田です。今日は「脱やる気」シリーズの2回目。
前回、私たちの「意識」(意思もここに含まれます)は、株式会社ジブンの社長ではなく、野生丸出しのワンマン社長「無意識」さんの、広報担当程度の存在でしかないというお話をしました。自由意志を尊奉する現代に育った私達にとって、極めて不快な事実です。しかし、これを受け入れることが「脱やる気」への第一歩となります。

はびこる「やる気原理主義者」

なんでもやる気のせいにする人のことを、僕は「やる気原理主義者」と呼んでいます。すぐに「やる気があるのか!」「やる気が足りてないからだ!」みたいなことを言い出す人たちです。いっぱいいますね。特に何らかの意味で「指導者」と呼ばれる人に多いのですが、これはなぜか、その人たちにとって「簡単で都合が良い」からです。

見ることも測ることもできない「やる気」なんていう謎なモノを持ち出して、他者の行動や結果の欠点・不備を指摘し、「やる気がないからだ!」とか「やる気が足りないせいだ!」とか、そんなのはバカでもできることです。

そんな人ばかりなのは、結局その人たちが、「なぜやれるのか・なぜやれないのか」について本質的なことは何も知らないからです。宗教的な原理主義者が、分からないことや不合理をなんでも神さまや信仰のせいにするのと同じです。

やれる・やれないを全て「やる気」の問題にしてしまえば、行動の不足も工夫の不足も全て「当人のせい」にすることができます。指導者としてこんなに楽なことはありません。

結局「やる気」ってどんくらいのもん?

株式会社ジブンが「無意識」社長がなんでも勝手に決めてしまうワンマン会社だとわかれば、「やる気」の正体も見えてきます。

意識広報は、決定権はないものの、「やるべき(なのに)」とか「やったほうがいい(のに)」などと、懸命に考えています。

無意識社長が意識広報の考え通りのことを「やる」と決めたら、意識広報は「やる気出た!」と内外に向けて説明し、「やらない」と決めたら「やる気出ない・・・」と説明する。「やる」の源泉が「やる気」であるという考え方とは真逆になってしまいますが、どうもこのあたりが事実に近いようです。

「負のやる気」についても考えてみる

やるべきと思っていることができないのと同様に「やめたほうが良い」「やってはいけない」と思っていることを、やめられない、ついやってしまうというのも、また我々の日々の現実であります。人間の意思(意識)がいかに小さな声しか持たないか、ということを考えるには、こちらのほうがむしろすっと理解できてしまうかもしれません。

そういう時、私たちは自分の内外に向けて、なんとか理由をこじつけようと努力する羽目になります。言い訳ですね。「やめなきゃ」と思っていることをしてしまった場合など、そこにまともな理由などあるわけがないのですが、なんとかこれをこねくり出そうと努めてしまうのが、意識広報さんの悲しい習性です。

やる気 → やれる は偶然の一致に過ぎない

こう考えてくると、「やる気」と称されるポジティブな感情は、実は、意識広報さんの「やるべき」と一致する決定を、たまたま無意識社長が下してくれた、その時に感じる良い気分をそう呼んでいるだけなのではないかという感じがしてきます。

妙な言い方に聞こえるかもしれませんが、つまり、「やる気出た!」もまた、無意識社長の決定に対する一種のこじつけ、後付けに過ぎないということです。

意識広報の考えと、無意識社長の決定の傾向がうまい具合にあった場合「自分にはやる気がある。だからやれる」と、逆にずれてしまった場合「自分にはやる気がない(足りない)からできない」と感じる場合が多いわけですが、それらは実は空想の産物にすぎないというわけです。

従来の「やる気」に近いもの

「やる気出た・やる気でない」がともに、「やる・やらない」決定に後付けされた情報でしかないとすれば、これまで「やる気」と呼ばれてきたものに一番近いものは何か。それは意識広報さんのか細いつぶやき「やったほうがいい」「やめたほうがいい」だということになるでしょう。

「やる気が足りない」から自由になる

言い換えると、「やるべき」「やらなきゃ」「やめるべき」「やめなきゃ」この気持ちが意識にあれば、それは「やる気」はある、ということになります。そして、「ある」さえ満たせば、もうその量や強さは問題ではありません。

くり返します。もし何かに対して「やらなきゃ」という思いがあるなら「やる気」はもう充分です。やる気は「ある」のです。

今「やれて」いようがなかろうが、それはもう「やる気の問題」ではありません。やる気の有る無し、足りる足りないから自由になって、どうやってあのワンマン社長を思い通りに動かしていくか、それを考えていくことにしましょう。

やる気があるとかないとか、出るとかでないとか、そんな無駄な考えから、今日自由になりましょう。

発火法を制覇したい(1)


このブログでは、極端一致(extremes meet)な子育てを一つのテーマに掲げています。両極の一つであるリアル世界を味わうことの一つの要として、「火」の扱いがあると思うのですが、このシリーズでは世の中に様々ある「発火法」を一通り、必要な道具を極力自作しつつ、制覇していきたいと思います。

普段、カチッとか、ポチッとかで手軽に取り扱っている発火を、あえて四苦八苦しながら実現するという過程を親子で楽しみたい。

ということで、まずは、主要な発火方法をリストアップしてみます。

  • 摩擦式
  • 火花式
  • 光学式
  • 化学式
  • 電気式
  • 圧縮式

ざっと、このくらいの種類に分かれるようです。すでに取り組み済みのものもあるのですが、次回以降、順次詳細を紹介しつつ、じわじわレポートしていきたいと思います。

極端一致(Extremes meet)な子育てがしたい

両極端イメージ

両極端イメージ

こんにちは、まなゲー池田です。
僕がデジタル・テクノロジーやデータサイエンスを子どもに学ばせたいと思うのと同時に、自然に触れ、観察し、できるだけ色々な方法でそれを味わう経験をつませたいと思うのは、どちらも同じ気持ちからきています。それは『この子の人生が豊かで面白いものとなりますように』という実にシンプルで当たり前の気持ちです。

リアルなマテリアルの世界と、バーチャル(デジタル)なデータの世界、これらは一見して両極端であるように見えます。確かに両者は真逆な存在です。でも同時に、実際のところ、僕らは両者が不可分に入り混じった世界で暮らしているというのもまた確かなことです。今後テクノロジーがさらに発展することで、リアルとバーチャルはより遠ざかるとともに、より緊密に混ざり合っていくことでしょう。

ですから、日々なんとなく過ごしている(過ごさせている)と、そこで積み重ねられる経験の中身が、実に中途半端なことになってしまいます。都市生活でより顕著ではあるでしょうが、かなりの田舎に暮らしていたって、それほど変わらないようです。僕はど田舎で生まれ育ちましたが、時折帰省して、付近をうろうろ散策しても、地元の子ども達が(僕の子ども時代のように)がっつり自然と遊んでいるところなど、ほぼ見かけることはありません。都会の子たちと同じく、自由時間の大半を、ウチの中でゲームや動画と過ごしているのでしょう。そう、どこだって大して変わらないのです。

そうして中途半端に過ごす日々を経て、子ども達は、リアル世界のこともバーチャル世界のこともろくに知らない若者に育つでしょう。それってすごくつまらない。

両極を(体験として)知り、どちらに対しても高い感性を持つ。そういう若者に育てたい。その後、どう生きることを選ぶにせよ。その目に世界はより彩り豊かで奥ゆき深いものに映るだろうと思うのです。

Scratchで作る!生態系シミュレーション

こんにちは、まなゲー池田です。
先日の「1分でつくる!Scratchで拡散シミュレーション」のプログラムをちょっといじって、植物、草食動物・肉食動物が登場する、生態系シムっぽいものができそうだったので、作ってみましたよ。

今回はまず、植物と草食動物を作っていきます。

植物をつくる

こちらが植物の中身、ランダムな場所に種が撒かれて、時間とともに成長(サイズ拡大)していき、草食動物が接触すると縮小していきます(食べられた)。食べ尽くされるといったん消滅しますが、どこからか種が運ばれて復活するイメージで、90秒後に同じ場所から再生し始めます。

草食動物を作る

こちらは草食動物。動物には体力プロパティ(hp)があり、時間とともに体力が減っていきます(空腹から飢餓へ向かう)。体力は植物に接触することで回復・増大し、一定まで増えると分裂して増えます(草食は草食でも単細胞生物っぽいですね。なお、個体のサイズ(=体力)は分裂時に一定減少します。)。肉食動物に接触する(襲われる・食べられる)ことで、急激な体力低下が起こりますが、今回はまだ肉食動物を実装しませんので、敵は空腹だけですね。

動かしてみる

Scratchの操作さえ慣れていれば、ここまで数分というところでしょうか。では早速動かしてみましょう。旗アイコンをクリックしてプログラムを走らせると。

こんな感じで、ステージ上に植物(緑)が出現し、ジワジワ成長し始めます。

しばらくのちに、草食動物(紫)が出現し、ステージをうろうろし始めます。

たくさんある植物をモリモリ食べて、ガンガン増えていきます(擬音多め)

そうこうするうちに、Scratchのスプライト(画像オブジェクト)表示上限まで来てしまいました。この制限は(仕方ないんですが)Scratchでシミュレーション的なモノを作ろうとするときに何かと障害になる厄介な制限です。ずば抜けた手軽さの代償ですね。

あっという間に、植物は食い尽くされ、ステージのあちこちで飢餓が発生します。動物の体力は見た目の大きさとして視認できるようになっていますので、小さいモノほど空腹で体力が低下しており、点のようになってしまっているものは、餓死寸前ということになります。

一定時間ごとに植物は復活しますが、草食動物の個体数が多いうちは、ろくに成長しないうちに食べ尽くされてしまい。ステージ中に飢餓が蔓延しているのが見て取れます。続々と餓死が起こり、個体数が激減していきます。

最盛期に250以上まで増えた個体数が、一気に30代まで減ってしまいました。ここでようやく、植物の復活・成長が追いつくようになり、動物の個体数も少しずつ回復し始めます。

その後は、だいたい個体数が100ぐらいまで行くと、食料が不足して個体数が減り始め、60前後まで減るとまた増加に転じるというのを繰り返すようになり、その範囲で安定してきます。

極めて単純な画面構成ですが、意外と子どもウケはいいようで「あ、ここが危ない。こっちのグループはもうだめだ」とか「こっちはめっちゃ増えてきた!」なんて言いながら、楽しげに眺めていました。

実際のプログラムはこちらで確認できます。

「脱やる気」でやれる自分に近づく(1)主導権を持たない現実を受け入れる

こんにちは、まなゲー池田です。
子どもと勉強に関わる仕事を続ける中で、ずっと考えていることがあります。・・・「やる気」と「やれる」って、あんまり関係なくないか??ってことです。「やる気」について知れば知るほど、どう考えてもそうなんです。が、しかし、世の中謎の「やる気信仰」に溢れています。このせいで無駄に苦しむ子ども(大人も)がすごく多いように思います。

そういうことで、この訳のわからん「やる気信仰」から抜け出して楽になって、できるだけ「やれる」自分になっていこうというシリーズです。何回やるかわかりませんが、基本的に客観的な根拠のある話だけします。それらをベースに考え方と行動調整のことだけお話しします。いつの間にか神様とかが出てきたり、サプリメントを売りつけられたり、とかそういう心配はありません(笑)

こういう話は長いと疲れるので、なるべく短く切っていきます。初回のテーマはこれ。

私が何をするかを、私は決められない

無意識、と言ってもフロイト先生が言ってた今となっては相当胡散臭いアレではなくて、もっと最近になって脳内の様子が色々観察できるようになってからの「無意識」に関する話です。

私たちは普段、自分の行動を自分でコントロールしていると思い込んでいますが、どうも全然そうじゃないぞということが、様々な研究から、わかってきてしまいました。

私たちの脳は、大まかに言うと、魚類や爬虫類と同じような「古い脳」の上に、高度に進化した動物が持つ「新しい脳」をかぶせたような作りになっています。

私たちが通常、心あるいは「意識」と呼んでいるものは「新しい脳」の方で活動していて、日々あれこれ考え、目標や計画を立てたりして、「あるべき」とか「やるべき」とか、「正しい」とか「間違い」とか色々思い悩んでいます。

一方、「無意識」はというと、古い脳の中に住んでいて、目前の物事について「スキ!」か「ヤダ!」か、それだけを考えています。先のことなど全く考えませんが、以前のことは実によく覚えていて、「これは前にイヤだったヤツだからヤダ!」などと一瞬で判定を下します。

そして、困ったことに、「無意識」は常に「意識」より手前にいて、より早く情報を受け取り、より早く決定し、より早くカラダに命令を下してしまうのです。

社長のつもりでいたが、実は広報さんだった

例えば、手をのばしてテーブルの上のコップを取る。そんな単純な行動でさえ「無意識」主導で行われているらしいことが判明しています。近代以降「わたし」は「意識」あるいは「理性」がコントロールすると信じられてきましたが、行動決定権は「無意識」にガッチリ握られてしまっていたのです。「意識」にできるのは、行動に理由を後付けすることと、後は、「こうしたほうがいいんじゃないかなー」と控えめに提案する程度のことでしかないらしいのです。

株式会社ワタシの社長だと思われていた「意識」は、実は、動物的勘だけで突き進むワンマン社長(無意識)の決定に、それらしい体裁を整えて社内外へ発信する「広報さん」でしかなかった。という驚愕の現実が見えてきました。そりゃ、思い通りにワタシが動かなくて当然です。何しろハナからそんな権限を持っていなかったんですから。

驚きの事実を突きつけられた、元自称社長の広報(意識)さん。さて、ここからどんな手を打っていくのでしょうか。

5分でよめる!AIにビビりすぎないために、先生・お母さん・お父さんが絶対知っておくべきこと

AI、AIと騒がしいこの頃ですが、先生、あるいは子育て中のお父さんお母さん的に、これだけは知っとこう、というのをまとめてみたいと思います。なるべく簡潔に短くまとめます。特にお急ぎの方は、見出しだけ読んどくのもありかと!(書いた後で朗読してみたら4分未満で読めました。)

今のAIは、統計と確率とビッグデータで動きます。

強大な計算力を武器に、与えられた膨大なデータに統計処理を施すことで、そこにデータの相関関係を見つけ出す。見つけた関係を用いて次の処理の精度を高める。これらの作業を無数に繰り返すことで特定の問題に対する正解予測能力を高める。というのが今のAIの学習方法です。この方法を採用することで、前世代のAIには対応出来なかった複雑な問題を処理することが可能になりました。

このことは、飛躍をもたらす一方で、およそコンピュータのイメージから遠い、新たな弱点を生み出しました。つまり、

今のAIは「必ずミスする」

ということです。複雑な問題を「確率で」処理しようとするのですから当然こうなります。例えば成功率が99.9%だったとして、それはつまり1,000回に一回ミスするということです。

このミスを、コストとして受け入れらる作業(仕事)であるか否かが、ある仕事をAIに任せられるか否かを問う重要な指標となります。

機械は責任を負うことができない

そして、このことは「AIのミスの責任を誰がとるのか」という新たな問題を生み出します。もちろんAI自身は責任を取ることができません。製造者責任ということになりそうですが、開発会社はこの大きすぎるリスクを決して負おうとはしないでしょう。重大な責任を負う仕事を、AIが単独で担うことは、その能力とは全く別のこの要因によって、少なくとも当面の間は出来ないでしょう。

AIを育てるのには莫大なコストがかかる

ごく卑近な例からいきましょう。フリーで使えるAIを、自宅に設置した個人で買えるレベルの良いパソコンにのっけて、多少混みいった学習をさせてみます。計算を始めたパソコンは数時間から数日、ぶっ通しで計算を行います。これを繰り返しながらAI育成を行うとどうなるか?・・・翌月、確実に家計が破綻する金額の請求書が電力会社から届きます(笑)

これをずっとずっと大規模におこないつつ、処理させる膨大なデータを用意するコスト、希少なAIエンジニアに支払う高給というコスト、もろもろでエライ事になるのが、現段階でのAI育成です。(ただし、一旦学習を済ませたAIを、複製しあちこちで同じ仕事をさせることには、それほどのコストを要さないだろうことも覚えておきましょう。)

今のAIもそれほど融通はきかない

高度な学習が可能となり、複雑な問題解決や状況判断を行えるようになったAIですが、学習済みでない新しい状況やデータにはまるで対応できません。この問題は、コンピュータの性能が上がっても解決せず、現状とは異なる新しいアプローチが必要になります。いわゆる「汎用AI」、人のように新しい状況に対応できるAIは、まだまだお話世界の存在です。

まとめると、今のAIは

高度に複雑な問題を処理できるようになった
でも、一定の確率で必ずミスを犯す
育成にすごくお金がかかる
出来上がるのは結局融通のきかない専門バカ

で、現場で働かせようとすると

機械なので責任を負うことはできない(人間の「上司」が必要になる)
運用コストは専門家を雇うより(うまくいけば)ずっと安い(ここで投資を回収)
研修が必要になるたびに、ビッグデータと専門家が必要になる(=高くつく)

結論、すごいんだけど微妙なところも多い

実際、今AIを導入してる企業・組織を見ても、話題作りとイメージアップと株価上昇が目的、という感じだし・・・。

もちろん、コンピュータとソフトウェアの進歩、IoTやロボティクスの組み合わせで、消えていく仕事はたくさんあるでしょう。でも、そんなの今に始まった事ではありません。そして、今回の話だけでも、どんな仕事から消えていきそうか、なんとなく見えてきますよね。労働者にとっての「おいしい仕事」は、投資家にとっての「無駄な出費」。忘れてはいけないのは、AI云々以上に、そんな昔からのコスト観のようです。

こんな感じかなぁ。