一貫教育、そうなっちゃうのか

一貫教育、公私立で学力さに苦慮、文科省調査(47ニュースより)

高校入試がないもんで、6年間の間にどんどん学力差がひろがってしまうと。

指導する先生方も大変でしょうが、自分が「落ちこぼれてる」と思いながら同じ環境で6年間過ごすというのも、なかなかハードな生活でしょうな。僕は中学まではまずまず勉強できる子でしたが、高校で進学校へすすんで初っ端のテストから思い切り落ちこぼれてしまったクチです。クラブや友達と過ごす時間は楽しかったので高校生活は結構充実してましたが、何しろ、ほぼ全ての教科で、先生の言ってることが殆ど理解出来ない状態だったので、授業中はかなりツラかったですね。で、当然ながら高校生の生活は大半「授業中」なわけですよ。

ある程度おいてかれてしまうと、そもそも何から手をつけてよいのかが分からなくなりますから、「なんとかしなきゃなー」ぐらいの覚悟では到底のりこえられるハズもなく、日々着々とどこかが蝕まれていく感じになります。これが6年続くというのはやはり。

人が幸福に生きていくうえで「自己評価が高いこと」はとても重要で、特に多感な時期にマイナス評価を受け続けると、他人に評価してもらうことでしか自分の価値を認めることができない状態に陥りやすく「評価してもらえない自分は価値がない」と一旦思い込んでしまうとあとはひたすら悪循環、となりかねません。

とすると、一貫教育においては、より慎重に、より手厚く「落ちこぼれさせないためのケア」を施す必要があることになりますが、一方で出来る子を「より高いところまで」育て上げるのも一貫教育の目的でしょうから、ますます難問化して…うーん大変だ。

ちなみに僕の成績は3年間低空飛行を続けたあと、浪人した1年で一気にあがりました。予備校の授業も、もちろん良かったのでしょうが、一番根っこのところから変わるきっかけとなったのは、地元の小さな予備校に行ってみたら、そこでまた急に「出来る子」として扱われたことだったのだと思います。

「見る」ことの大切さ

ウチにはいま1歳前の娘がいますが、一人でおもちゃや絵本で遊んでいても、時々こちらを向いて、私たち親が自分を「見ている」ことを確認しています。

目を合わせて笑みを返してやるとまた手元に注意を戻すのですが、こんなに小さな子供でも、親に「見られている」という事実そのものに一定の安心感を得ていることに、「見守られている」感の大切さを改めて感じます。

親子関係からはなれて、教室作りに成功していると思われる先生方は、やはり子供たちに「自分たちをちゃんとみてくれている」と評価されています。もちろんこの「見る」と「監視」とは全く異なるものです。「見る」は安心と信頼を、「監視」は不安と対立を、まったく逆の結果を生み出します。そもそも「見ていない」のは論外として、一生懸命子供を見ているつもりが、いつのまにか「監視」になっていないか。常に自問して行かなければなりませんね。

患部の自覚

最近ちょっと首・肩の痛みが深刻になってしまったため、マッサージに通っているのですが、そこでのやりとり。

先生:「どうです?調子は?」 

僕:「お陰様で首はかなり楽になってきたんですが、なんだか二の腕がやたらと痛くなってきたんです。。。」

先生:「あぁ、それきっと、もとから痛かったんですよ。『一番痛いトコ』の順番が入れ変わってそう感じるようになったんですね」

なんと、首・肩が痛すぎて今までちゃんと感じられていなかったのだというのです。これは非常に興味深い発見でした。我々は自分自身の身体の痛み・ツラさについてさえ、その程度しか把握できないのだということです。ましてや他人や物事について「~が悪い」「~が原因」などと安易に予断することがいかに危険かということを、文字通り「身をもって」体験できました。

何かを治そう・改善しようと思う人間が、常に念頭においておくべきことのように思います。

まぁ、発見はもう十分なので、身体の方はさっさと改善されて欲しいものだと切実に思いますが(笑)

模索

受験生に限らず、やりたいことやらねばならないことがあると、時間がいくらあってもたりませんよね。そうなると大体「睡眠時間」が問題になってくるものではないでしょうか。何しろ1日1時間睡眠時間が減れば1年で365時間、ざっと15日分、丸々24時間×15日分ですから、起きている時間分だけで計算すればさらに数日分ふえる はずです。これはデカイですよね。

このところ、ベストの睡眠時間を模索して色々試しているのですが、なかなかうまくいきません。

一般論としては6時間~8時間だという話をよく聞きますが、僕の場合あまり長く寝ると背中や肩などあちこち痛くなってしまいますし、頭もぼんやりしてしまいます。そういう意味での体調からいくと僕の睡眠時間は4~5時間がベストなようなのですが、この睡眠時間を数日続けると、食後などに「眠い」ではなくて「寝てしまう」という状態になってしまいます。食後だけなら良いのですが、波があるようで唐突に眠気がやってきてしかも抗えません。運転中などに波が来ると大変危険です;;

そこで4~5時間を数日、危なくなる前にもう少し長く眠る日を一日挟む、というのが答えなのではないかと考えているのですが、試してみること自体がなかなか難しく、結論をみません。最近の試みは失敗だったのか、これを書いているたった今も非常な眠気の波にさらされています;;

さらに、単純な睡眠時間の問題ではなく、就寝時間の早い遅い、食事の量や質もかなり影響しているようなので、なかなか自分なりのベストにたどり着くことができません。ひとまず「短い睡眠」と「少ない食事」がキーワードかなと見えてきてはいるのですが・・・。

「やらない」という選択

昨年の教訓をいかすべく、「やることを絞り込む」というのも今年の重要なテーマの1つなのですが、これがなかなか難しくて、ついつい「あれもやっておいた方が」「これもやらないわけには・・・」という気持ちが起こってしまいます。

「やるべきこと」と「やらなくてよいこと」の2分なら良かったのですが、零細体制ですから、「やらなければならないこと」と思われる項目すら、全てに取り組むことはできません。きちんと優先順位をつけて、場合によっては「あえて今はやらない」という選択をしなければならないわけですが、これがなかなか・・・

 ・・・と悩んでいる時間自体がまた全体を圧迫・・・なかなかままなりませんね。

熱心に語られるということ

今日、信号待ちでたまたまとなりになった中学生二人づれが、なにやら熱心に話をしているので聴き耳をたてていると。カードバトルの話題でした。

キャラクターの名前やステータス、スキルやら他のカードとの関係など、非常に複雑な内容を実に良く覚えていて、スムーズに、かつ楽しそうに話していました。聴いているとそのカードゲームがとても魅力的なものに感じられてくるほど。そこらの単語集を量的には優に上回るカードに関する情報がかれらの頭の中に収まっていることは想像に難くありません。しかも、進んで、楽しんで、それを覚えたはずなのです。

こんな雰囲気で、例えば数学の問題の攻略法を教えあう姿・・・なかなか街角で出会うのは難しそうですねぇ;;

カッコイイことは大切

子供向けの学習ゲームをつくっていながら、我が家には現在就学年齢の子供がおりません。(0歳児ならいますが・・・)なので、放っておくと、今時の子供たちがなにに熱中し、どんな遊びをしているのかが見えなくなってしまいます。そこで、例えば子供向けのマンガ雑誌なんかを買ってきて読んだりもするのですが、先日は「別冊コロコロコミック」を読みました。

まぁ、なんといっても驚くのは、おもちゃやゲームなどとの所謂「タイアップ」ものの占める割合がすさまじく高いこと。しかし、これをけしからんなどと言うつもりは全くありません。

経済の問題としてみれば、子供たちも立派な消費者で、子供たちの時間のどれだけを、それで遊ばせるか、そのことを考えて過ごさせるか、ということが家計からオカネをどれだけ引き出せるか、ということに直結してきます。子供をとりまくあらゆるメディアや遊びは、この「時間」の奪い合いに大量の投資をおこなっています。その1つが「タイアップもの」コミックとしてあらわれているということだと思います。

また、こうした取り組みの重要なポイントのひとつとして、その遊びに「強い」こと「詳しい」ことが、「カッコイイ」「ステキな」ことであると認識させること。というのがあると思います。この価値形成に成功すれば、みんなこぞってその遊びに取り組むことになり、製品の市場価値が飛躍的に伸びるというわけです。

翻って、我らが「勉強」にはこういった努力、少なくともその成果と思われるものはまるで見当たりません。。。

勉強ができる子は、何十年も前から相変わらず悪者か主人公の引き立て役と相場は決まっていて、たまに、勉強「も」できる知性派ヒーローがいても「勉強」そのものは彼の魅力のもととしては扱われません。

勉強が「できる」のがカッコイイ、でなくて良いと思うのです。いや、さらにゆずって「できる」子キャラは今後も引き立て役でもよしとしましょう。ただ、難しいものにがんばって取り組んで、それを身につける、という意味で「勉強をがんばる」ことはカッコ良くあってほしいと思います。そもそも、とてつもない困難の連続に直面して、それを見事乗り越えてみせるマンガやアニメの主人公達が、学校の勉強程度の課題から逃げ出してしまうような状況は、本来は不自然なハズなのですが。。。こう書いている私自身が、大活躍のあと机に向かって宿題をしている主人公という絵にはやはり多少の違和感を感じてしまいます。なぜ、そういうキャラクターが魅力的という型ができてしまったのでしょうね。

とても魅力的で、大活躍で、でも勉強もがんばっちゃうカッコイイ主人公がでてこないかなぁ。(なんにでも全力投球の不器用なキャラというのは過去にも結構良いのがいますね。今もいるのかな。)

勉強も子供たちの「心を得る」ことを真剣に考えなければならない所に来ているように思うのです。

「まなゲー」という提案

当サイトで提供しているような学習ゲームをさして言う言葉に、「エデュテインメント」というのがあります。

これはエデュケイション(教育)とエンターテイメントを併せた造語ですが、個人的にはこの言葉があまり好きではありません。長くて・硬くて・難しいからです。

私が、サイト上のゲーム群を作成するにあたって、常に考えていることは、一言で言うと「どうしたら、少しでも長い時間、このゲームと向き合ってもらえるか」ということです。現代の子供達は多忙です。それに加えて、少ない空き時間を狙って様々なメディアが子供達の時間の「奪い合い」をしている状態にあります。

このような環境にあって、勉強だけが「時間を割いてもらって当然」という態度をとるのは間違いです。例えば、ある子供が、学校へ来て授業中に、昨日みたテレビ番組のことを考え、その続きがどうなるかということに完全に心を奪われていたとすれば、その時間は「勉強」の時間ではなく「テレビ」の時間なのですから。勉強・教育はいかにして子供の心をつかむかということを真剣に考えなければなりません。

学習ゲームの作成・普及は、「ゲーム」という既存メディアの中に「教育」を割り込ませようとする行為です。ならば、まずはこのメディアの中になじむことが肝要です。子供は直観的な判断力に優れていますから、中途半端な態度はすぐに見透かされてしまいます。いくら言葉の上で「ゲーム」と謳っていても、パッとみて「あ、これは問題集」と思われてしまえば、それはゲームではない訳です。

私が、乏しい制作・運営資金の中で、あえてキャラクタのビジュアルやアクション、BGM・効果音などの要素に注力しているのは、この考えがあるからです。結果として、ある程度「ゲーム」としてみてもらうことに成功しています。(あくまで、「ある程度」である自覚もまたきちんと持っていますが。)

そこで、ジャンルとしての名称の話に戻ります。 子供に限らずゲームを楽しむ人たちは「~ゲー」という表現をよく使います。「格ゲー」「落ちゲー」などのジャンルをあらわす言葉から、つまらないゲームをさす「クソゲー」まで様々ですが「クソゲー」と言う時ですら、ゲームというメディアそのものに対しての愛情がこもっているように感じられます。さて、ここへ件のエデュテインメントを持ち込んだとして、どうでしょう?エデュゲー?そもそもデュというのが発音しにくいのがかなりのネックですし、やはり非常に硬い印象がぬぐえません。

昨今の、「大人の~」シリーズのヒットでリアルゲームという表現もそこそこ普及してきましたが、これもちょっと生生しい感じがしますし、略称化するまでにはいたっていないようです。

ゲームの中の1ジャンルとして、学習ゲームがうけいれられていくためには、呼びやすく・親しみやすい呼称が必要であると考えます。と、ようやくタイトルの内容にたどり着いた訳ですが、「まなぶ」ゲームで「まなゲー」というのはどうでしょうか。のばし抜きで「まなゲ」などでも構いませんが。

あるいはこれを媚であると考える教育関係者があるかもしれません。また、何と呼ぼうが勉強は勉強、と拒絶する子供達は、きっとたくさんいることでしょう。しかし、私は媚びて勉強に興味をもってくれる子供が増えるなら、それで良いと思います(なにしろ、少なくとも一部の子供達の生活において勉強はもはや「見捨てられ」ているのですから)し、拒絶される原因は勉強そのものにではなくどこまでもアプローチ方法と技術にあると考えます。

まずは選択肢に入らなければ、それは存在しないのと同じなのです。

機能と複雑さ

先月の更新が予定通り進まなかった理由のひとつでもあるのですが、機能や選べる問題が増える一方で、使いやすさ・分かりやすさといった要素が犠牲になってしまうのは問題ですね。

ワンワードワールドは、現行でも問題選択やシナリオ選択など、どうも煩雑になってしまっており、これに問題追加による「科目選択」が加わるとさすがにちょっと・・・という感じが否めません。将来的に多数の問題ユニットを配し、網羅性の高いツールに仕上げていきたいという制作意図からしても、この問題を避けては通れませんので、あれこれと試行錯誤しているわけなのですがなかなか・・・思うようにまとまってきません。

ストーリー要素を完全に切り捨ててしまえば、けっこう分かりやすくなるのですが、これはこれで「ゲーム」としてみた時に、捨てたくない要素なうえに、会話やイベント周りのシステムは、いずれ解説やヒントのためにつかえるものにくみ上げていくつもりでいるので、その意味でも切り捨てがたいのです。

作り手であるこちらは、システム全体の仕組みや流れを予め知ってしまっているので、それらの予備知識がない人が初めて使う時に、どう感じるのか、どう戸惑うのか、ということについてなかなか想像が及ばないもので、難しいところです。この頃はプレイヤーとしてゲームで遊んでいても(いや、そんな時間はなかなかないのですけど)、ついついそういった使いやすさの点で、どういう工夫がされているのか、といった点に気がいってしまうのでした・・・。そういうわけで、何かお気づきの点がありましたら、ちょっとしたことでも結構ですので是非お聞かせ下さい。

なぜ「無料」にこだわるのか(2)

 そもそも、無料云々以前に、僕が自分で学習ゲームコンテンツの開発を行おうと思った理由は、かつての生徒たちに使わせるのに良いと思えるものが全然見当たらなかった(少なくともその当時では)からです。管理側(大人)本位で「楽しませよう」という気の感じられない製品群と、それらに失望している利用者(当時の僕を含めて)。期待されない分野はますます伸びにくくなるという悪循環は、結局のところ「まだちょっと早かった」ことがそもそものつまづき始めであったのだと思います。「早かった」というのは開発・導入・更新、全てに膨大なコストがかかる当時の情勢では、普及させること自体が困難だっただろうということです。

しかし、いわゆるIT革命が進み、web2.0などと称される現在にいたって、上記のコストが劇的にさがり、パソコン・高速回線ともに非常な普及率をみせるようになったにも関わらず、学習ゲームという分野は、依然として、十分な伸びを示してはいないように思います。

インターネットから離れますが、ニンテンドーDSなどの家庭用ゲーム機で、教育・学習系のソフトが多数発売されています。これはこれで非常にいい傾向だとは思うのですが、実際のところ大ヒットは、有名な「脳を鍛える大人のDSトレーニング」など、ごくごく一部にすぎません。しかも、くしくもその最大のヒット作品に「大人の」と冠されているように、ターゲットは大人であり、もともと子供向けに作られた他の製品群には、ヒットと呼べるほどのものは見当たらないように思います。

こういった現状の背後には、やはり結局のところ「お金」の問題があるわけです。さまざまなコストが大幅に下がったとはいえ、やはりこの学習ゲームという分野(特に子供向けのもの)が、まだまだ「おいしく」ない分野であることに変わりはありません。「おいしくない」ところには人もお金も集まっては来ないものです。