「スターウォーズから」親が学ぶべきこと

それは「恐れ・不安」を原動力として子供に「力」を求めさせたり、行使させたりしてはいけないということです。学力でも同じ。

まさしくフォースの申し子として生まれ出でたアナキン・スカイウォーカーは、十分過ぎる素質と清い志を備えていましたが、ダース・シディアスの巧妙かつ遠大な罠の中で、次第にその「不安と恐れ」を膨らませ、ついにはそれに飲み込まれて、愛する人、ジェダイ評議会、その他もろもろを巻き込んで破滅に至ります。

この話を、師であり親代わり(アナキンは父親なしで生まれて、母親とも幼少期に離別。その後さらに死別。)であるジェダイ・マスター達、特にオビワンとヨーダ、ウィンドゥによる、極めて壮大な子育て失敗の物語として見てみましょう。

はっきりいって、マスター達(特に偉い方の二人)はアナキンの破滅に「加担」しています。

アナキンは、(主にマスター・ウィンドゥによって)どれほど力をつけても、実績をあげても、自分はついに認められない、受け入れられないという思いを繰り返し味合わされています。

そして、あまりに抽象的で果てしなく遠いと感じさせてしまう目標ばかりを提示する、マスター・ヨーダ。

こいつらは何しろアナキンのことをまるで見れていません。彼女が妊娠しちゃってることどころか、彼女がいるのにも気がつかない。いや、そこはこの際いいんですが、とにかく子供(弟子)の不安に無頓着どころか、逆に煽るばかりで全く支えてやる気が感じられない。「不安を感じておるな・・・心を強く持つのじゃ(俺みたいにな)」で助言したった顔されても困ってしまいます。必要な信頼関係の伴わぬところ、真理といえども虚しく響くのみです。

ジェダイ・マスター達が何をおもってアナキンを「育成」していたのか、それは定かではありませんが、アナキンの心が「ジェダイ評議会と関わると苦痛ばかりだ」と日々学習していたことは間違いありません。

認められない・受け入れられない不安が、とにかく結果を!結果をだせる力を!という気持ちを生じさせ「不安を払うために力を求める」という傾向をさらに強めてしまいます。
さらに、母親を救えなかった経験などから、大切なものを守るために力を求め、あげく、圧倒的な力を得なければ全てを失ってしまうという強迫観念をもつに至ります。

頼みのオビワンはというと、ケンカしつつも愛情をそそぎ、それをアナキンも感じていた様子がはっきりみられます。いい関係だったんですよ。しかし、一番大事な時に(使命=仕事のために)側にいません…。その事をこじらせてか、アナキンは最後になって「全部オビワンが悪い!」みたいな感じになってしまってます。「俺の人生がこんなになったのは全部お母さんのせいだ!」的な話で全く笑えません。

この間、一方のダース・シディアス先生は、ほぼ一人で銀河共和国を腐敗させたり戦争させたり、表の顔と裏の顔で両陣営の最高責任者を兼務するという、ありえないほどの激務をこなしながら、ちゃーんとアナキンの心の状態を把握していて、絶妙のタイミングで「不安」や「恐れ」に点火したり油を注いだり。愚痴話だって、しっかりきいてあげます。その上、アナキンがオビワンに切り捨て御免されるや、はるか銀河の彼方から彼の危機を感じ取って、とりあえず全部放り出して(多分)自ら救助に駆けつけます。最悪ですが、「見ている」という点では残念ながら完璧です。

一体なぜこんなことになってしまうのでしょう。
なぜジェダイ達は、あんなに偉そうで冷たくて、アナキンを救うどころか追い込んでしまうのか。

それは、ひとつには、ジェダイ達が「自分たちは正義」と思っていることに起因しているのだと思います。
自分が正しいことを言っていると思うと、人間、偉そうで、断定的で、冷たく、鈍感で相手の気持ちに配慮しないということになりがちです。教育に関わる人の多くが「勉強はするのが当然(しないのは子どもがわるい)」と(心のどこかで)思ってしまっているのもそのせいです。逆に、シスに限らず「悪」サイドはというと、自分たちの倫理的不利を知っていますから、その発言行動は慎重で懇切丁寧。自分の言葉をいかに相手に「届かせる」かということに常に心を砕いています。この差が、彼らの銀河全体の運命を大きく左右したというわけです。

遠い昔、はるか銀河の彼方で、
ウィンドゥがもうちょっとアナキンを認めてやっていれば、
ヨーダがフォースじゃなくて「耳」でもっとアナキンの話をきいてやっていたら、
オビワンがもっと…それはちょっと酷かなぁ。

さて、我々の銀河へ戻りましょう。

生き物は不安や恐怖があれば、何はさておき、まずそれから逃れるために行動します。もちろん人間も同じです。

不安によって「狙った行動」を引き出すことは可能ですが、それは終わらぬ不安の日々へと子供を追い込む行為です。まず安心・安全がなければいけないというのはそういうことです。「不安による(子どもの)管理」と「不安の管理」は厳に区別し、混同しないようにしなければなりません。

「不安による管理」は操作に長けていますから、親の望み通り、あるいはそれにちかい行動をとらせることが比較的容易でしょう。短期的には効果的・魅力的に感じるかもしれません。しかし子どもの基本姿勢は「逃げ」となります。よくて「防御」。極めて消極的になりやすいうえに、積極性を見せたとしたら、それは不安の強さの表れであるという悲しさです。

「不安の管理」は環境を整えることで、本来の意欲や興味を解放するものですから、解放された心がどこへ向かうかをコントロールすることは容易ではありません。無理かもしれません。しかし基本姿勢は「攻め」。積極性を旨とするものになります。

子どもは、その小さな社会の中で、日々あたらしい「不安の種」を拾って帰ってきます。拾うというのはもしかすると違うかもしれません。いわゆる「くっつき虫」のように本人がはっきりと自覚しないままに持ち帰ってくるものも多いからです。

そうして帰ってきた子ども達にむけて、さらなる不安の種を振りかけてはいないでしょうか。子どもの将来に対する「あなた自身の不安」から逃れるために、子どもを不安にさせてしまってはいないでしょうか。

少なくとも我々の銀河には、100%のジェダイもいなければ100%のシスも存在しません。それと同じく「不安による管理」を完全にすてることは難しいでしょう。しかし、それを行うとき、すくなくとも親はそのことを自覚していなければならないと思うのです。

流行や義務でやるもんでもないでしょうという話

僕は結構ガッツリと子育てに関与していますが、正直なところ「イクメン」と評されるのはゾッとします。

なぜなら「イクメン」の背後に、男も子育てに参加「しなければならない」という雰囲気をつくって、それによって人を縛っていこうという態度が露骨に見えてしまうから。こっちは好きで楽しくやってんのに勝手に取り込まないでくれという感じです。天邪鬼なもんでつい「だったら俺ぁやらねぇ!」とか言ってしまいそう。いや、やるんだけども。

ま、他人をみて「飲み歩いてないで帰って子ども寝かして嫁さんの話きけよ」と思うことも、そりゃまぁしばしばあるわけですけど。
ついでに白状すると、今週は全然人のこと言えない状態なんですが…。
奥様、娘様、ごめんなさい。

小人閑居して「善」をなす?

小人(しょうじん)じゃなくて「こども」です。
ちょっとダジャレてみたかったのです。すいません。

こんにちは、まなゲーらんど 池田です。

極端な話をしましょう。
実行してしまうと逮捕間違いなしですからあくまで例え話として、

子どもをカラッポの密室にいれて、外に出さず、食事とトイレ、睡眠の世話以外に何も与えず、
その密室に教科書とノートと鉛筆と消しゴムをいれておくと・・・そりゃ間違いなく勉強しますよね?少なくともそのうち。

手に入る唯一の「ひまつぶし」なんですから!!

その密室に、少しずつ足していきましょうか。

お母さん、お父さんが中に入って暮らします。
全員でいっしょに勉強してもいいんですが(笑)、大人には「本」を差し上げましょう。とりあえず活字限定で。

両親との会話や手遊び、相撲などが、勉強に「競合」する「娯楽」として加わりました。
大人が読んでいる本を頑張って読む、読んでもらう、というのも加わるかもしれません。

さぁ次は何をいれましょう?その次は?その後は?

(追記:人によっては「親」が入った時点でアウトな気もしてきましたので、カラッポから自由に想像してください(笑))

どこまで「そりゃ勉強するでしょ!」を(必要な程度に)保てるでしょう。
何が入ると勉強と競合するでしょう。競合としての強さはどうでしょう。
単純にモノ環境だけ(有る=みんな使える)で考えてみましょう。

っと、何が一番邪魔かを決めるのが目的ではありません。
何にもなかったら「そりゃ勉強するよね?」というところに戻って考え直してみること自体が肝心なんじゃないかなと。

仮にお子さんが勉強ぎらいだとして、それはどの程度「勉強のせい」で、どの程度「本人のせい」で、どの程度「競合のせい」なのでしょう。例えばレゴなどの「ブロック」と「勉強」が競合した場合、どの位の確率でどちらが勝利するでしょう。その予測の根拠はなんでしょう。「コロコロコミック」ではどうでしょう(僕は少年期毎月この発売日を心から待ち望んでいました。読み終わると次まで1ヶ月と思って絶望的な気分になるほどに(笑)なぜなら僕が入手できるコミックが原則として月に1冊これだけと決められていたからです。)。などと色々較べてみましょう。

そして、「これ以上はモノを置けない」となったら現実と較べてみましょう。その現実の環境でお子さんが勉強するのがどの程度の難度のクエストか、多少実感が沸くのではないでしょうか。

「勉強」に絞らなくても、読書でも工作でも、妄想だって構いませんが、
一般的に望ましいと思われる行動を子どもにとってほしい時は「暇させておくこと」が肝心なように思います。

「暇つぶしとしての優秀さ」がモノの「危険度」を計る上で重要な指標となり、
「つぶさないで暇しておけばいいやん」という態度が強力な武器となりえるのであります。

テレビ・ゲームと勉強/ジャンクフードと健康的食事

テレビやゲームと勉強の関係って、ジャンクフードと身体に良い食事の関係と似ている。

ジャンクフードをおなかいっぱい食べたら、どんなに身体に良いものでも、もう食べられません。逆もしかり。
つまり両者は子ども達の胃袋の容量(胃袋シェア)を奪い合っているといえるます。
娯楽メディアと勉強の場合は、子ども達の「時間」(時間シェア)を奪い合っているというわけです。

ジャンクフードは手軽さ、食べやすさ、さらに「いかにしてハマらせるか」を常に追及し、休むことなく「改良」が加えられているし、膨大な広告費を投入してプラスのイメージとセットで刷り込む「努力」が行われ続けています。

これらは、身体(生理)と感情(情動)を掴む努力だといえるでしょう。
親の都合・事情や怠け心などについてもよく研究されていて、良いタイミングでの提供と、上手い言い訳(後ろめたさへの)の準備まできちんとされていたりします。

一方、良い食事や勉強を推進する側が訴えかけようとするのは、多くの場合聞き手の「理性」に対してですが、「理性」が「身体および感情の下僕」であることは多方面からの研究によって明らかなことです。つまり、「良い」側が「決定権のない人」を必死に説得している間に、「決定権者」とジャンク側の間では、とっくに合意が成立してしまっているというなんとも間抜けな有様なのであります・・・。

例外的に上手く言っている「良い側」の活動。例えば、食に関するジェイミー・オリバーの活動などは、この辺がよく分かっているなーという感じがします。ジェイミーの言動が、やけに攻撃的なのは、そうでなければ「決定権者」に届かないことを自覚しているからだろうと。彼らから学ぶべきことは多いと思います。

追記:
子ども達を「脅し」ても成果に繋がらない(短期的に取り組みを促進することは可能だが、長期的に害が上回る)ので、脅しの矛先は大人に限定すべきでしょうね。この記事を読んでお子さんに「ちゃんと勉強しないと~だぞ!」なんて話をしないで下さいね。

ドラクエにおける、プレイヤーの「反復作業」と勇者の「経験」

knight

こんにちは、まなゲーらんど 池田です。

出張授業で子ども達と話すとき、ゲームと勉強の共通点としてあげるもののひとつに「繰り返しで強くなる(上手くなる)」というのがありますが、ゲーム内における反復って、一体何回ぐらい行われているもんなんでしょう、また、その反復における「キャラクターの成長体験」とはどのようなものなのか、あえて流さずにちゃんと考えてみるのも面白いかもしれないと思ってやってみました。

世代をまたいで話題として共有できそうなもの、ということで今回は「ドラゴンクエスト1」を取り上げます。
主人公が単独行動で、戦闘も1対1の遭遇戦ということで経験を量的に把握しやすそうというのもこれにした理由です。

ラスボスである竜王をある程度確実に倒せるレベルであるレベル20に達するために必要な経験値は29,000ポイント。
スライム・レベルから死神の騎士・レベルまで全てのモンスターとの戦闘から得られる経験値の平均が23.03ポイント。
本当は出現率やらも考慮すべきなんでしょうが、そこはざっくり割り算してしまうとレベル20到達に必要な推定戦闘回数は1260回となります。

常にある程度の苦労を要する(順調な成長に資する)レベル帯のモンスターとのサシの遭遇戦を闘い、撃破し続けること1260回・・・。これは量的にみてどういう経験なのでしょう。

現実世界における人物の経験と比較して見ます。
1、「剣豪」宮本武蔵:生涯に約60回の決闘を経験
2、「レッドバロン(世界史上最強の撃墜王)」リヒトホーフェン:撃墜数80機

うーん、こうして比較すると1260回の戦闘のヤバさ加減がよく分かりますね。
スライムに苦戦する所から、竜王を倒す勇者に成長するためには、剣豪宮本武蔵の20倍を超える実戦経験が必要だった
(武蔵は数十人と同時に戦ったりもしてますが、勇者の相手も明らかな怪物だったりしてますし・・・)と・・・。それに勝ち残ったとすれば、そりゃまぁ、勇者の人間離れした強さも納得できるというものです。

同時にモチベーション維持装置としてのゲームを見れば、それ自体は退屈極まる操作である「コマンド入力」を、これだけの回数に渡って、くりかしくりかえし実行することを可能にさせるだけの性能があったということになります。

当然ながらゲームはリアルな報酬も利益もプレイヤーに対して提供出来ませんから、内発的な動機付けに頼ってこの反復回数を実現している訳です。反復の中で繰り返し感じられる有能感・効力感。つねにごく近いところに具体的に見えている「具体的な成長像(なりたい自分)」等など、とても理にかなっています。これを「刺激でつっている」とだけ捉えて眼をそらしていると本質を見失います。

褒めてやる気をださせる。叱ってやる気をださせる。どちらも将来的な行き詰まりの約束された道です。
自家発電的に再生産される「俺スゲー!」だけが、持続的な努力を可能にします。
その流れに乗せる支援を行うべく、どうしたら「はがねのつるぎをゲットした自分」や「ベホイミをおぼえた自分」と同じように「繰り下がりの出来る自分」や「通分をマスターした自分」に憧れを感じさせられるか。ここのところをこそ真剣に考えるべきなのです。

地味ーな練習を繰り返し繰り返し行ったとして、1260回以内に習得できなさそうなこと、って・・・少なくとも「勉強」に関していえば、そんなに多くなさそうですよね?

トッキュウジャーvs歴代戦隊ヒーロー 大人の為のもうひとつの「ヒーロー大戦」

テレビを観る子ども達

こんにちは、マナげーらんど 池田です。
多くの子ども達が幼児期に夢中になる戦隊ものシリーズについて、最新作と90年代、70年代の作品を刺激量で比較してみました。
その結果、同じく戦隊ものシリーズをみていても、現在の子ども達とかつて子どもであったころの私たちでは、まったく異なる経験をしているであろうことが示唆されました。

僕は以前から、勉強・宿題に「とりくめない・繰り返せない」子ども達について、彼らが既に大人である我々には「想像もつかないような退屈」の中にある可能性を指摘してきました。
退屈さというのは相対的なもので、どのような刺激を「普通」と感じているかの影響を受けます。人間に限らずすべての生き物は、あらゆる刺激にすぐ慣れていきます。そして強い刺激になれれば、その強さをあまり感じなくなり、同時により刺激の少ないものにたいして、より大きな「つまらなさ」を感じることになります。ですから、強い刺激に慣れればなれるほど、子ども達は、例えば計算・書き取りプリントなどに取り組む際に、より早く飽き、より強い退屈とそれにともなう苦痛を感じる可能性が高くなるはずなのです。

現在の子ども達が、かつての子ども達である我々と比べて、より強い刺激になれているであろうことは、なんとなくレベルでも納得してもらえると思いますが、それをあえて量的に比較してみようというのが今回の企画です。

今回比較対象としたのは、シリーズの最新作であり2014年5月現在放映中の「烈車戦隊トッキュウジャー」と、92年放送の「恐竜戦隊ジュウレンジャー」、75年放送でシリーズ第1作である「秘密戦隊ゴレンジャー」です。出来るだけ客観的に比較できる基準でということで、シナリオ等の内容については吟味せず「眩しさを感じる視覚効果の出現回数」を比較しています。
(「眩しさを感じる」の部分に観察者である私の主観が入ってしまいますが、背景で小さく光る計器類などまで数えていくとキリがなかったりもしたのでそのようにしています。)

各作品の第1話について、プロローグからエンディングまでの約25分間の間にどれだけの回数「眩しさを感じる視覚効果」が使われているかをカウントして比較した結果をまとめたのが下のグラフ(画像)です。

戦隊シリーズ刺激比較

結果、ゴレンジャー(’75)で37回、ジュウレンジャー(’92)で89回、トッキュウジャー(’14)では実に324回も「眩しさを感じる視覚効果」がみられました。ゴレンジャーとトッキュウジャーの比較では8.76倍にもなります。(トッキュウジャー第1話を視聴した場合、22分10秒の間(使用したDVDにエンディングが含まれなかったため他よりやや短い)、平均して約4秒に1回のペースで眩しさを感じるレベルの強い光を見続けていることになります。)

さらに言えば、個々の視覚効果についても、年代が変わるにつれて格段に強くなっていく傾向にあると感じました。

ゴレンジャーでは火薬を用いた火花と爆発を直接撮影したものがほとんどであるのに対して、ジュウレンジャーでは撮影したフィルムに処理を加えるタイプと思われる効果がかなり追加されて賑やかさが大幅にアップ、トッキュウジャーに至ってCG使いまくりの画面中光りまくりという状態です。画面全体の明るさ、さらに言えば視聴機器であるテレビやモニタの画面そのものの明るさも大きく変化しているわけですから、それらも加味して、いったいどれほどの刺激の差があるのかというのをイメージしていただくとより実像に近づくかもしれません。

さて、この比較を通じてお伝えしたいこと、考えてみていただきたいことですが、「危険だからすぐ観るのをやめさせましょう!」というのとはちょっと違います。
(それも良いでしょうが、なかなか難しいと感じる方が多いでしょう。)

肝心なことは、子ども達が既にその刺激の中に暮らしていて、慣らされているということであり、同じく「戦隊ものを視聴する」と称される行為でも、我々大人が体験したそれと今子ども達が体験しているそれは、まったくの別物である可能性が高いということなのです。何しろ、少なくとも8倍以上になったであろう刺激を、記録メディアを使って「繰り返し」見ている場合が多いのですから。

子ども達に「勉強しなさい!」「宿題やったの!?」と叱るとき、その「できない」の一端、もしかすると大半は我々が「育てた」ものかもしれないという自覚のもとに発言・行動しなけばならないし、その前提のもとに対策を考えねばならないということなのです。

大人社会への小窓(取り次ぎ役)としての勉強

特別なギフテッドである場合を除き、子ども達にとって、大人一般から高評価を受け特別に扱ってもらうための殆ど唯一の方法が「勉強」です。親や先生がどれだけ「良いところを見つけて伸ばす」態度を示そうが、大人社会一般の通念として、そのようであるということを、子供たちは敏感に感じ取ってしまいます。他のあらゆる尺度での評価に、カッコつきで(勉強はできないけど)(勉強ができる上に)などがイチイチ付着しているのが透けてしまうのです。

そして、勉強に向いた、あるいは発達的に先行している子ども達の一部が、評価と高待遇を受け取り、それ以外の多数の子ども達が、自分達は評価されないのだという事を知ることに、というより体感することになる訳ですが、この構造は何かに似ていますね。「取次ぎ役の権威肥大」です。

歴史上、権力者の側近、ことに本来自身は権力を持たないはずの「取り次ぎ役」の権威が異常に肥大化した例は枚挙に暇がありません。彼らを通さなければ何者も権力にアクセス出来ない状況が、本来持ちえ得ないはずのものを与えてしまうのです。

子ども達にとっては勉強が、大人社会への取り次ぎ役であるという訳です。勉強に気に入られるか上手く取り入ったもの達だけが、大人社会の好意を得て優遇されることになります。他の道が完全に存在しないわけではありませんが、極めて高難度かつハイリスク。古代に例えるなら、剣闘場の英雄となって謁見をゆるされるようなレベルの話です。

もちろん、好意と高待遇を獲得した子ども達にとっても問題は容易ではありません。機嫌を損ねることなく関係を維持していかねばならないのですから。

かくして「勉強様」の権威は肥大化し、勉強はモンスター化します。子ども達にはコレをねじ伏せるだけの力をつけるか、上目遣いで付き合っていくか、逃避するか、殆どこの3択しか与えられません。そして逃避を選んだ場合、殆どは完遂されることなく捕縛されるに至ります。

(大人社会の縮図として現れる子ども社会においても、勉強様の権威は、歪んだ形ながら浸透しており、この事が逃避の完遂をより困難にします。)

我が子をすすんで「取り次ぎ役」の機嫌とり名人、あるいはその虜囚に育てたいと思っている人は、普通あまりいないでしょうけれど、深く考えずに「勉強は大事」と連呼すること(そう感じさせる態度をとること)、あるいはそのような情報源に子どもを頻繁に曝すことは、つまりそういうことなのです。

モンスターと戦うものには、何より「敵を知る」ことこそが重要。子どもを応援しているつもりが、いつのまにかモンスターの味方をしてしまっていた、とならないよう注意したいものです。

アナと雪の女王:父ちゃんがムスメと語りたいこと

こんにちは、まなゲーらんど 池田です。
先日、ムスメ(5)と二人で「アナと雪の女王」を観てきました。僕は初めて、彼女は3回目(!)。

リラックスして楽しく観られましたが、やはり、というかいわゆるジェットコースタームービーですので、幼児の頭は、その場面場面を愉しむので一杯いっぱいだろうなーとも思いました。
それではもったいないので、これをネタにまた二人で、あるいは家族みんなで色々語り合ったりしたいと思うわけです。以下、ネタバレを含みますのでまだこれから見る予定の方はご注意を。(といっても大体の筋はなんかバレバレになってますよね。この映画(笑))

さて、この映画、なにかと「真実の愛」ですが、アナと雪の女王におけるこの「真実の愛」ってどういうものだったのでしょう。
エルサの魔法を心に受けて全身が凍りはじめたアナ、これを溶かすものは「真実の愛」だけである、という展開ですが、はじめそれをハンスに求め、ついでクリストフに期待し、でも結局、窮地にあるエルサを救うためにわが身を投げ出したことによって魔法が解ける訳です。しかし、考えてみると、これだけではちょっと浅すぎないか?という感じが残ります。(身内の為に命を投げ出すということを実際に実行できるかどうかはおいて、物語の中心として、ということですが)

アナは「求めるもの」です。受け入れられたい、愛されたい、という気持ちに足が生えて走り回っているような女の子です。「エルサを助けなきゃ」と言って後を追いますが、やってること言ってることは一貫して「~して!」ばっかりです。その彼女がついに・・・というのはそれなりに劇的ではありますが、考えてみるとこのお話には、極めて受容的で献身的な存在が既に登場しています。そう、オラフです。

夏にあこがれる陽気なゆきだるまオラフ。序盤「ゆきだるまつくろう」の歌にもみられるように、この物語においてゆきだるまは、アナとエルサ姉妹の心の通い合いの象徴です。幼い二人が魔法で雪遊びを楽しむ場面でもエルサは「オラフ」をつくっていますが、こちらのオラフは心を持たないただのオブジェクトのようでした。ではなぜ、後にあらわれたこのオラフは、心を持ち、しかもあんなにもアナに対して受容的かつ献身的だったのでしょうか。これはエルサが生み出したもう1体のゆきだるま(?)、エルサの「こばむ気持ち」のアバターである雪の巨人と対置されることで分かりやすくなっていますが、オラフこそは、エルサのアナに対する、寄り添いたい気持ち、受け入れたい気持ち、支え守りたい気持ちの化身であるからです。巨人との違いは、巨人は拒絶を「込めて」作られたのにたいして、オラフにはエルサの心が「宿った」感じなところ。

ハンスに見捨てられ今にも息絶えなんとしているアナを助け、ゆきだるまの身で暖炉に火をともしながら「アナのためなら溶けてもいいよ」と平然と言い放つオラフは、物語の真のヒーロー(名前からしてたぶん男なので)でもあります。エルサの、アナを大切にしたい傷つけたくないという気持ちの「伝わらなさ」もこの物語の最重要要素のひとつですが、オラフとなったエルサの愛は、(ハンスをして野望の暴露に踏み切らせたほどに)衰弱しきっていたアナに、立ち上がり、最後の冒険へと向かえるだけの力を与えています。しかし、あくまでアバターにすぎないオラフには凍らんとするアナの心を完全溶かすまでの力はありません。

そしてオラフによって支えられ導かれたアナが、(まだクリストフになんとかしてもらおうとか思ってますが)襲われるエルサをかばってハンスの前に立ちはだかる。氷像となったアナにすがって泣くエルサ(凍ってしまったアナだからこそ抱きしめるが可能だった)。この時、姉妹の心がついに「通った」のだと思います。

とまぁ、ごちゃごちゃ書きましたが、父ちゃんはムスメとオラフの話がしたいのでした。一緒に歌うのも楽しいけれど。

ハンスのことや父王のことも書きたいけど、また今度にします。

連休中あちこち行って色々やったが娘には虫捕りが一番だった件

ちょうちょ捕り

【ちょうちょ捕り】
実家から徒歩1分の農道わきに、子どもを解き放っておくだけで、お金も時間もかからず、子どもも大満足、虫の扱いなどを教えてやると嫁さんにまで感心される素敵イベント。連休中色々やったけどコレが一番楽しかったみたい。虫捕り網を抱えて走っていく姿が、小銃を抱えて突撃する兵隊のようで、実像と連想のギャップにより平和さを感じて面白い。

養老孟司さんが「虫捕る子どもだけが生き残る」を著しておられるが、実際虫捕りは心身ともにフル活動で鍛えられるなぁ、と見ていて思った。おまけに「生命」を直接扱わせられる機会でもある。手に着くリンプンや、すぐに欠けてしまうアゲハの羽、いかにも脆いモンシロチョウのからだ等からもムスメの「手」が色々学んでくれただろう。子どもと遊んでいてもすぐ『いま彼女のなかで何が起こっているだろう』などと想像してしまうのは僕の悪い癖だが、子育ての楽しみと思う。

「もっと大切にあつかってやれ」と偉そうに声をかけるオヤジの子ども時代は、毎日が虐殺の日々だったといっても良い。一体どの口がいうのかと失笑してしまうが、過失的に、あるいは意図的に生き物を損なう経験から取り返しのつかない「一線」を感じ取ることも必要だ。

この夏はぜひ釣りをさせて、小魚をさばく所を体験させたい。

wired日本版のワザとくさい誤訳(?)がちょこちょこ気になる件

http://wired.jp/2013/07/25/to-war-is-human-perhaps-not/

wired日本版のワザとくさい誤訳(?)がちょこちょこ気になる。
お友達が紹介してらしたのでさっき読んだこの記事もそう。はじめ読み手に「暴力は人間の本質でなかった」という内容だと思わせるような書き方をしておいて、読み進むとぜんぜん違う記事なのです。

元記事では、
Sure, humans are violent, the researchers say ? but…
とはっきり人間がviolentだと前置きした上で、でも、集団間での殺人(戦争的なもの)は、(かつての狩猟採集社会で)人類が犯した殺人全体の中での、ごく少数を占めるに過ぎなかった、そこが誤解されて戦争が人間の本質に根ざすものであるかのように思われている、ということを語っているのに、その前提部分が日本語訳からは意図的っぽく省かれていたり、拡大解釈を招くような表現や省略があったりしています。

例えば冒頭「人間の中にある好戦的な気質が、実は比較的あたらしいものだとする・・・」、これ「好戦的」を「戦争(個人間でなく集団間の殺し合い)を好む傾向」と解釈しないと本来の意味からズレてしまうけれど、普通もっと広い意味でとらえてますよね。こういうのがちょこちょこある。

もちろん僕も、暴力が人間の本質ではなかった!と言ってもらえる方が嬉しいし、そう思いたいので、そういう記事なのかと期待した訳です。でも違った。違うのにそう感じさせるように書かれてた(と思う)。

いい方向にであれ、悪い方向にであれ、こういうのはホントやめてほしい。

論文が指摘していることもとても重要なことなのに、記事の冒頭で変に煽られているせいでなんだか読後感が微妙に・・・。