学校へ伺って、子ども達と勉強について話し合ったり、意見を聞いたりすると、親世代の影響というか「学歴社会」の影がまだまだ非常に色濃く見られるなぁと感じます。なんというか、そこだけやけに古臭いと言いますか・・・。
これからこの「学歴」ってやつは、どのように扱われるようになっていくのか、ちょっと考えを整理してみようと思います。
協働を可能にする記号としての学歴
人は「微笑む」生き物です。他の生物はそんなことはしません。
なぜ人は微笑むのか。それは「私は安全ですよ。あなたに危害を及ぼすものではありませんよ」と相手に伝えるためです。
人は「大きな白目」を持つ生き物です。白目を持つことは相手に目の動きを悟られ、心を読まれることに繋がります。心理状態を読まれることは生存上不利になるので、他の生物は白目をほとんど持ちません。我々は敢えて心を読ませることで、互いに「大丈夫ですよ」と伝えあっているわけです。
学歴の話のはずが、微笑みだの白目だの、関係のなさそうな事ばかり述べていますが、ここで確認したいのは、学歴というものは、これら同様、人類が赤の他人と付き合い協働していく上での一つのサインとして機能している(してきた)ものだということです。
「私は一定の理解能力と処理能力を備えた人間ですよ」
「退屈や理不尽に一定以上の耐性があって、我慢のきく人間ですよ」
「だから、この仕事に私を採用して大丈夫ですよ」
例えば、こんなことを伝える(受け手側に期待させる)記号です。
このサインを受け取った側が、それを「評価」して、採用だったり依頼だったりという「リスク」を取ることを受け入れてくれることを期待した記号です。
受け取る側としては、限られた時間の中で、相手を評価して決断しなければならない。その時に、「ある程度信頼できる記号」であってくれることを「学歴」に期待してきたわけです。
この記号の信頼性がかなり微妙なものであることは、ずっと以前から言われてきました。それでも学歴がここまで価値を(減らしつつも)保ってきたのは、代わりになるより良いものがなかったからに過ぎません。
評価経済へ向かう情報社会が学歴の存在意義を脅かす
昨今、いよいよ学力・知的能力・知識・技能に加えて、人格的特性や政治的信条、経済的状況にいたるまで、あらゆる個人の「能力・信頼・信用」情報が、ネットを通じてやり取りされるようになりました。これらの情報を数値化するサービスも次々と出現しており、一部ではそこでの評価がすでに通貨にも似た取引上・生活上の価値を持ち始めてさえいます。
誰もが極めて詳細かつ客観性と検索可能性の高い「私はこんな人間です」というデータを伴って世間を歩き回り。初めて出会う誰かとやりとりする時でも、必要に応じて互いその情報を引き出す(分析したり分かりやすくまとめたりはAIがやってくれます)ことができる世界が目前に迫っています。(ビジネス的需要もあってこの流れはいよいよ加速するでしょう)
これが普通になった時、誰が「学歴」を重視するでしょうか。かつて「学歴」という記号に期待されていたもの、その中身そのものの方を、具体的に分かりやすく容易に知ることができるというのに、敢えて信ぴょう性の低い「記号」に期待してリスクを負う人など、あっという間にいなくなってしまうでしょう。
大学入試改革の足元で急速に進む大変動
「学歴」が社会的価値を失っていくに伴い、教育機関は「学歴付与」という機能を失っていきます。そして、個々の学生を如何に育成したかを細かく問われるようになっていきます。「○○大出のAさん」から「Aさんの出た○○大」という評価の方向へと逆転していくということです。さらに、評価対象となる単位は「大学」ではなくなり「研究室」や「プロジェクト」へと変化していくでしょう。この流れの中で、個人の評価も「どのプロジェクトでどのような役割を果たしたか」をより細かく評価されるようになり、大学はそれらプロジェクトが立ち上がる「場」として評価されるようになります。そしていずれ、情報サービスのさらなる発展が「場」としての大学の存在意義も否応なく低下させていくことでしょう。
2020年、大学入試改革とか言っているその足元で、根底が覆らんとしていることも忘れてはいけません。
特定の試験の価値が暴落し、現時点での力が評価されるようになる
この変化は「学び続ける個人」にとって大きな恩恵をもたらします。
高校入試も大学入試も、全て「その時点での学力」を表す指標でしかなくなります。個人に関するあらゆる評価が刻々と更新され続ける世界にあっては、「〜時点での評価」を常に書き換えることが可能になります。入試の失敗は「とある試験」で成績が振るわなかったという評価に過ぎなくなっていきます。ソーシャルな失敗は尾を引くようになってしまうでしょうが、学力・知識・技能の不足は努力によっていつでも補うことが可能になります。
入試に失敗したら人生終わり、的な妄想から解放されるのは、子ども達にとっても保護者にとっても非常に良いことだと思います。
いつ何を学ぶかの自由を得て、あるべき状態へ
もちろん、学力・知力が今後ますます重要な能力となっていくことは変わりません。勉強は相変わらす極めて重要です。でも、「何歳の何月までにどの水準に達しているか」という意味のない縛りに追い立てられることは、なくなります。この縛りから真に解放された時、小中学校も家庭も本来の最重要課題である「意欲や興味関心を守り育てていく」というところにようやく立ち帰れるのではないかと期待しています。