パパと娘とプログラミン

文科省が開発公開している、子ども向けプログラミング学習ツール「プログラミン」を、小学1年の娘と一緒に遊んでみました。

この「プログラミン」、複雑なスクリプト入力など一切なしで、ほとんどがマウス操作でキーボードを使うのは数字ぐらい、ブロック遊び感覚の直観的な操作でプログラミング学習ができる優れものなんですが、残念ながらあまり存在を知られていません。

今回は、その可能性を子どもと一緒に検証してみようということで、娘(小1)といっしょに、休日の午後、チャレンジしてみましたのでレポートします。

さて、一年生にプログラミンによるプログラミングは可能なのでしょうか?はじまりはじまり…

※「プログラミン」で検索するとすぐに見つかります。

プログラミン画像1

タイトル画面から、「プログラムをつくる」をえらびます。

プログラミン画像2

もう一度「プログラムをつくる」。
「使い方をおぼえる」を飛ばして始めてしまっても大丈夫です。

プログラミン画像

「おてほんをみる」は、いきなりみても理解しがたいので、やはり飛ばして、
「あたらしいプログラムをつくる」にいきます。

プログラミン画像

これが制作画面のインターフェース。
画面下の方に、ずらーっと並んでいる変な生き物?がプログラミン達です。
とりあえず、やじるし系4つ(ヒダリン・ミギーン・ウエーン・シターン)の
中から適当にえらんで、「ここにプログラミンを…」のところにドラッグします。

プログラミン画像

すると、こんな感じで絵の上にブロックが追加されます。
で、画面右端の「さいせい」をクリックすると…

プログラミン画像

う、動いたっ!スタートから「とりあえず作ったものが動いた」までが早くていいですね。

「とめる」をクリックして、制作画面にもどり、さらにプログラミンを重ね置きしてやると、どんどん命令が追加されていきます。(重ね順の下から順番に処理されます)

プログラミン画像

深く考えずにどんどん追加しては再生、でも問題なさそうです。
うごかしてみれば、あぁこいつはこういう風になるのねとわかってきます。

※ここまでで最初の問題、ドラッグってなんじゃ?うまくできん!が発生しました。

最初の一個はまだ良いんですが、2個目以降を追加しようとするとき、意外にポインタの位置がシビアで、思ったのと違う所にいってしまったり、追加したつもりがされなかったり、すでに設置済みのものをズラしてしまったり消してしまったり…。

ある意味これが一番の問題だと思いました。アンドゥ(直前の操作の取り消し)ができないのもあって、このドラッグの失敗に結構苦しめられます。子どもがドラッグ操作になれるまで、イライラしない。させない努力が必要になります。子どもの小さい手にあう、小さめのマウスを準備してあげると良いのかなーと思いました。タッチパッドだとさらに苦しいのでぜひマウスを…。

指定の操作を繰り返させる「ズットン」と「ナンカイン」、複数の命令を同時に実行させて、例えば斜め移動などを実現させる「イッペンニン」など、制御系のプログラミンが登場すると複雑さが増しますが、さきに「させたい動き」を考えさせて、必要になった所で「こんなんあるわ」と進めてやると、試行錯誤しつつ、すんなりハードルを越えていく感じでした。

思っていたのと違う動きになったときに「なんでやー!」と笑えるかどうかは、重要なポイントだと思います。笑えてさえいれば、何度でも試行錯誤しますし、予想外の動きが、さらなるイメージのふくらみにつながる、という場面も見られました。

まぁ、僕の方は「こうしたらできるよ」とすぐ教えたくなってしまうのを出来るだけ我慢するのに必死でしたが・・・。

しばらくやるうちに、基本自分で考えて、つまったら相談してくる、という感じになり…。出来上がったのがこれです。

1人と1匹がロケットに乗り込んで、飛び立ちます。なかなか戻ってきませんがやがて帰ってきたロケットから2人が降りてきて、「ただいま!」これだけなんですが、意外に中身は複雑です。

プログラミンによるプログラミング学習が1年生に可能であるか、どの程度理解・活用出来るかの試金石としてのチャレンジでしたが、プログラミンの優秀さとともに、苦労しやすいポイントも見えました。

【操作上の問題点】

ドラッグ&ドロップに苦労しがち

これは記事中で既出。意外に細かいマウスワークが必要になるので、親子ともにイライラしないように…。

誤って右クリックしてしまう

プログラミンはフラッシュで制作されているので、画面上で右クリックするとフラッシュプレイヤーのメニューが出てしまいます。で、さらにそれをクリックしてしまうと、あたらしいタブが開いてしまい、「なんじゃこらー」となります…。これも意外とストレス。

いずれも、慣れればすぐ大丈夫になる類のものですので、落ち着いてフォローしてあげれば乗り越えられるものと思われます。

【知識・学習進度上の問題点】

読めない漢字が出てくる

想定している学年は不明ですが、読み仮名なしで漢字が使われているので、そこはまぁ、読んであげるしかないですね。

三桁以上の数値や少数・マイナス値、角度などもあつかう

必須…ではありませんが、作りたいものによってはやはり必要になります。
が、概念を習う以前に使い道として知っている、というのは悪くないんじゃないかと思いました。むしろ積極的にいじらせてみたいところです。さらにいえば、学校で学ぶ過程や単元終了後に、プログラミンをつかって、習得した概念を実用してみるなどの活用は、大いにアリなんじゃないかと思います。

【結論】

個人差もあるでしょうが、今回試してみた限りでは1年生のプログラミンによるプログラミング学習は「あり!」というのが池田の感触でした。初体験から2−3時間でこの様子であれば、もう少しやればすべてのプログラミンの使い方を理解できるでしょうし、さらに複雑な作品やゲームなども容易につくれるようになるのではないかと思います。

本人もかなり楽しそうでしたので、また続きをやってみたいと思います。

また今後、機会があれば、同級生(とその保護者)などを招いて複数人での学習にもチャレンジしてみたいなぁと思います。

「スターウォーズから」親が学ぶべきこと

それは「恐れ・不安」を原動力として子供に「力」を求めさせたり、行使させたりしてはいけないということです。学力でも同じ。

まさしくフォースの申し子として生まれ出でたアナキン・スカイウォーカーは、十分過ぎる素質と清い志を備えていましたが、ダース・シディアスの巧妙かつ遠大な罠の中で、次第にその「不安と恐れ」を膨らませ、ついにはそれに飲み込まれて、愛する人、ジェダイ評議会、その他もろもろを巻き込んで破滅に至ります。

この話を、師であり親代わり(アナキンは父親なしで生まれて、母親とも幼少期に離別。その後さらに死別。)であるジェダイ・マスター達、特にオビワンとヨーダ、ウィンドゥによる、極めて壮大な子育て失敗の物語として見てみましょう。

はっきりいって、マスター達(特に偉い方の二人)はアナキンの破滅に「加担」しています。

アナキンは、(主にマスター・ウィンドゥによって)どれほど力をつけても、実績をあげても、自分はついに認められない、受け入れられないという思いを繰り返し味合わされています。

そして、あまりに抽象的で果てしなく遠いと感じさせてしまう目標ばかりを提示する、マスター・ヨーダ。

こいつらは何しろアナキンのことをまるで見れていません。彼女が妊娠しちゃってることどころか、彼女がいるのにも気がつかない。いや、そこはこの際いいんですが、とにかく子供(弟子)の不安に無頓着どころか、逆に煽るばかりで全く支えてやる気が感じられない。「不安を感じておるな・・・心を強く持つのじゃ(俺みたいにな)」で助言したった顔されても困ってしまいます。必要な信頼関係の伴わぬところ、真理といえども虚しく響くのみです。

ジェダイ・マスター達が何をおもってアナキンを「育成」していたのか、それは定かではありませんが、アナキンの心が「ジェダイ評議会と関わると苦痛ばかりだ」と日々学習していたことは間違いありません。

認められない・受け入れられない不安が、とにかく結果を!結果をだせる力を!という気持ちを生じさせ「不安を払うために力を求める」という傾向をさらに強めてしまいます。
さらに、母親を救えなかった経験などから、大切なものを守るために力を求め、あげく、圧倒的な力を得なければ全てを失ってしまうという強迫観念をもつに至ります。

頼みのオビワンはというと、ケンカしつつも愛情をそそぎ、それをアナキンも感じていた様子がはっきりみられます。いい関係だったんですよ。しかし、一番大事な時に(使命=仕事のために)側にいません…。その事をこじらせてか、アナキンは最後になって「全部オビワンが悪い!」みたいな感じになってしまってます。「俺の人生がこんなになったのは全部お母さんのせいだ!」的な話で全く笑えません。

この間、一方のダース・シディアス先生は、ほぼ一人で銀河共和国を腐敗させたり戦争させたり、表の顔と裏の顔で両陣営の最高責任者を兼務するという、ありえないほどの激務をこなしながら、ちゃーんとアナキンの心の状態を把握していて、絶妙のタイミングで「不安」や「恐れ」に点火したり油を注いだり。愚痴話だって、しっかりきいてあげます。その上、アナキンがオビワンに切り捨て御免されるや、はるか銀河の彼方から彼の危機を感じ取って、とりあえず全部放り出して(多分)自ら救助に駆けつけます。最悪ですが、「見ている」という点では残念ながら完璧です。

一体なぜこんなことになってしまうのでしょう。
なぜジェダイ達は、あんなに偉そうで冷たくて、アナキンを救うどころか追い込んでしまうのか。

それは、ひとつには、ジェダイ達が「自分たちは正義」と思っていることに起因しているのだと思います。
自分が正しいことを言っていると思うと、人間、偉そうで、断定的で、冷たく、鈍感で相手の気持ちに配慮しないということになりがちです。教育に関わる人の多くが「勉強はするのが当然(しないのは子どもがわるい)」と(心のどこかで)思ってしまっているのもそのせいです。逆に、シスに限らず「悪」サイドはというと、自分たちの倫理的不利を知っていますから、その発言行動は慎重で懇切丁寧。自分の言葉をいかに相手に「届かせる」かということに常に心を砕いています。この差が、彼らの銀河全体の運命を大きく左右したというわけです。

遠い昔、はるか銀河の彼方で、
ウィンドゥがもうちょっとアナキンを認めてやっていれば、
ヨーダがフォースじゃなくて「耳」でもっとアナキンの話をきいてやっていたら、
オビワンがもっと…それはちょっと酷かなぁ。

さて、我々の銀河へ戻りましょう。

生き物は不安や恐怖があれば、何はさておき、まずそれから逃れるために行動します。もちろん人間も同じです。

不安によって「狙った行動」を引き出すことは可能ですが、それは終わらぬ不安の日々へと子供を追い込む行為です。まず安心・安全がなければいけないというのはそういうことです。「不安による(子どもの)管理」と「不安の管理」は厳に区別し、混同しないようにしなければなりません。

「不安による管理」は操作に長けていますから、親の望み通り、あるいはそれにちかい行動をとらせることが比較的容易でしょう。短期的には効果的・魅力的に感じるかもしれません。しかし子どもの基本姿勢は「逃げ」となります。よくて「防御」。極めて消極的になりやすいうえに、積極性を見せたとしたら、それは不安の強さの表れであるという悲しさです。

「不安の管理」は環境を整えることで、本来の意欲や興味を解放するものですから、解放された心がどこへ向かうかをコントロールすることは容易ではありません。無理かもしれません。しかし基本姿勢は「攻め」。積極性を旨とするものになります。

子どもは、その小さな社会の中で、日々あたらしい「不安の種」を拾って帰ってきます。拾うというのはもしかすると違うかもしれません。いわゆる「くっつき虫」のように本人がはっきりと自覚しないままに持ち帰ってくるものも多いからです。

そうして帰ってきた子ども達にむけて、さらなる不安の種を振りかけてはいないでしょうか。子どもの将来に対する「あなた自身の不安」から逃れるために、子どもを不安にさせてしまってはいないでしょうか。

少なくとも我々の銀河には、100%のジェダイもいなければ100%のシスも存在しません。それと同じく「不安による管理」を完全にすてることは難しいでしょう。しかし、それを行うとき、すくなくとも親はそのことを自覚していなければならないと思うのです。

流行や義務でやるもんでもないでしょうという話

僕は結構ガッツリと子育てに関与していますが、正直なところ「イクメン」と評されるのはゾッとします。

なぜなら「イクメン」の背後に、男も子育てに参加「しなければならない」という雰囲気をつくって、それによって人を縛っていこうという態度が露骨に見えてしまうから。こっちは好きで楽しくやってんのに勝手に取り込まないでくれという感じです。天邪鬼なもんでつい「だったら俺ぁやらねぇ!」とか言ってしまいそう。いや、やるんだけども。

ま、他人をみて「飲み歩いてないで帰って子ども寝かして嫁さんの話きけよ」と思うことも、そりゃまぁしばしばあるわけですけど。
ついでに白状すると、今週は全然人のこと言えない状態なんですが…。
奥様、娘様、ごめんなさい。

アナと雪の女王:父ちゃんがムスメと語りたいこと

こんにちは、まなゲーらんど 池田です。
先日、ムスメ(5)と二人で「アナと雪の女王」を観てきました。僕は初めて、彼女は3回目(!)。

リラックスして楽しく観られましたが、やはり、というかいわゆるジェットコースタームービーですので、幼児の頭は、その場面場面を愉しむので一杯いっぱいだろうなーとも思いました。
それではもったいないので、これをネタにまた二人で、あるいは家族みんなで色々語り合ったりしたいと思うわけです。以下、ネタバレを含みますのでまだこれから見る予定の方はご注意を。(といっても大体の筋はなんかバレバレになってますよね。この映画(笑))

さて、この映画、なにかと「真実の愛」ですが、アナと雪の女王におけるこの「真実の愛」ってどういうものだったのでしょう。
エルサの魔法を心に受けて全身が凍りはじめたアナ、これを溶かすものは「真実の愛」だけである、という展開ですが、はじめそれをハンスに求め、ついでクリストフに期待し、でも結局、窮地にあるエルサを救うためにわが身を投げ出したことによって魔法が解ける訳です。しかし、考えてみると、これだけではちょっと浅すぎないか?という感じが残ります。(身内の為に命を投げ出すということを実際に実行できるかどうかはおいて、物語の中心として、ということですが)

アナは「求めるもの」です。受け入れられたい、愛されたい、という気持ちに足が生えて走り回っているような女の子です。「エルサを助けなきゃ」と言って後を追いますが、やってること言ってることは一貫して「~して!」ばっかりです。その彼女がついに・・・というのはそれなりに劇的ではありますが、考えてみるとこのお話には、極めて受容的で献身的な存在が既に登場しています。そう、オラフです。

夏にあこがれる陽気なゆきだるまオラフ。序盤「ゆきだるまつくろう」の歌にもみられるように、この物語においてゆきだるまは、アナとエルサ姉妹の心の通い合いの象徴です。幼い二人が魔法で雪遊びを楽しむ場面でもエルサは「オラフ」をつくっていますが、こちらのオラフは心を持たないただのオブジェクトのようでした。ではなぜ、後にあらわれたこのオラフは、心を持ち、しかもあんなにもアナに対して受容的かつ献身的だったのでしょうか。これはエルサが生み出したもう1体のゆきだるま(?)、エルサの「こばむ気持ち」のアバターである雪の巨人と対置されることで分かりやすくなっていますが、オラフこそは、エルサのアナに対する、寄り添いたい気持ち、受け入れたい気持ち、支え守りたい気持ちの化身であるからです。巨人との違いは、巨人は拒絶を「込めて」作られたのにたいして、オラフにはエルサの心が「宿った」感じなところ。

ハンスに見捨てられ今にも息絶えなんとしているアナを助け、ゆきだるまの身で暖炉に火をともしながら「アナのためなら溶けてもいいよ」と平然と言い放つオラフは、物語の真のヒーロー(名前からしてたぶん男なので)でもあります。エルサの、アナを大切にしたい傷つけたくないという気持ちの「伝わらなさ」もこの物語の最重要要素のひとつですが、オラフとなったエルサの愛は、(ハンスをして野望の暴露に踏み切らせたほどに)衰弱しきっていたアナに、立ち上がり、最後の冒険へと向かえるだけの力を与えています。しかし、あくまでアバターにすぎないオラフには凍らんとするアナの心を完全溶かすまでの力はありません。

そしてオラフによって支えられ導かれたアナが、(まだクリストフになんとかしてもらおうとか思ってますが)襲われるエルサをかばってハンスの前に立ちはだかる。氷像となったアナにすがって泣くエルサ(凍ってしまったアナだからこそ抱きしめるが可能だった)。この時、姉妹の心がついに「通った」のだと思います。

とまぁ、ごちゃごちゃ書きましたが、父ちゃんはムスメとオラフの話がしたいのでした。一緒に歌うのも楽しいけれど。

ハンスのことや父王のことも書きたいけど、また今度にします。

連休中あちこち行って色々やったが娘には虫捕りが一番だった件

ちょうちょ捕り

【ちょうちょ捕り】
実家から徒歩1分の農道わきに、子どもを解き放っておくだけで、お金も時間もかからず、子どもも大満足、虫の扱いなどを教えてやると嫁さんにまで感心される素敵イベント。連休中色々やったけどコレが一番楽しかったみたい。虫捕り網を抱えて走っていく姿が、小銃を抱えて突撃する兵隊のようで、実像と連想のギャップにより平和さを感じて面白い。

養老孟司さんが「虫捕る子どもだけが生き残る」を著しておられるが、実際虫捕りは心身ともにフル活動で鍛えられるなぁ、と見ていて思った。おまけに「生命」を直接扱わせられる機会でもある。手に着くリンプンや、すぐに欠けてしまうアゲハの羽、いかにも脆いモンシロチョウのからだ等からもムスメの「手」が色々学んでくれただろう。子どもと遊んでいてもすぐ『いま彼女のなかで何が起こっているだろう』などと想像してしまうのは僕の悪い癖だが、子育ての楽しみと思う。

「もっと大切にあつかってやれ」と偉そうに声をかけるオヤジの子ども時代は、毎日が虐殺の日々だったといっても良い。一体どの口がいうのかと失笑してしまうが、過失的に、あるいは意図的に生き物を損なう経験から取り返しのつかない「一線」を感じ取ることも必要だ。

この夏はぜひ釣りをさせて、小魚をさばく所を体験させたい。